霊樹の実
キザシは地面に転がっていた。
空の星は徐々に輝きを増している。今夜もまだ月明かりが十分明るい。
草むらからは、軽やかな澄んだ虫の音が響いている。
キザシの出血した生臭い臭いが辺りに立ち込めていたが、ここに獲物を求めてやって来る者はいなかった。
霊界最強と謳われる鯉族の結界のすぐ横だったため、危険な霊獣が来ることが少ない場所なのが幸いした。まだ誰からも嗅ぎあてられずに済んでいた。
手負いのキザシは今狙われたら、食われるしかない。
──俺は‥‥‥那津を守れなかった。俺たち、やっと番になれたのに。
それだけじゃあない。那津は俺を守るために───
ごめんな、那津。俺は甘かった。
俺、もうここで死ぬのかな? 那津をあいつの懐に置き去りにして‥‥‥‥
那津‥‥‥
今日の二人のあの楽しい出来事が嘘だったみたいに思える。
泉での水浴びも、霊樹の木の木登りも、那津が印をくれたことも。
嗚呼、あの時間に戻れたら‥‥‥
目尻から耳へ、つーっと涙が一筋流れ落ちた。
キザシは切れ切れに朦朧としていた。
気力を振り絞り意識を保っているつもりだったが、ふっと気づけば 今、意識を失っていた‥‥‥と、気づくを繰り返している。
那津の妻としての最後の言葉は辛いものだった。
『このキザシの印を外せ。これは妻の命令じゃ』
『早くおまえの妻の頼みを聞けっ! 聞かねば許さん!!』
──俺は那津に捧げた印を外しちまった。
あの後、那津はもう正気を保っていなかった。俺の横でうずくまって、ぶつぶつとただ呟いていた。俺を案じて。
『キザシを助けねば‥‥‥死ぬでない‥‥死ぬなど妾は許さぬ‥‥‥これで‥‥‥キザシは‥‥‥生きる‥‥‥これで‥‥‥』
その那津をあいつは抱えて連れ去った‥‥‥
──那津は俺を選んでくれたのに、俺といることを望んでくれていたのに。
こんなの間違ってんだ。こんなの‥‥‥ちく‥‥しょう‥‥‥
キザシは起き上がろうと もがいてみたが、もう体の芯から霊力もわき起こることも無くなっていた。
──ここまで弱っちまうと、俺にはもう成すすべはもう無いってか? 大鷲サマとしたことが。
最期に、せめて那津がくれた印の感触を確かめたいと思った。
──これは那津が俺を選んでくれた印し。
やっとのことで左脚を曲げて、手で探る。
ふと、手に何かが当たって転がった。
「‥‥‥‥‥え?」
──この感触と匂い‥‥‥霊樹の実? なんでこんなところに?
キザシが手探りでそれを掴もうとすると、下草に埋もれて他にも数個の霊樹の実が転がっていることに気づいた。
──那津だ! 那津が家から持って来てたんだ!
そんで俺が印を外した時に置いた‥‥‥
俺のために。
自分を助けるための術を、最後まで思い巡らせていた那津を想い、キザシの目に涙が溢れる。
それは那津が着物の袖に入れて持って来たものだった。
キザシから、『霊樹の実は貴重でなかなか手に入らない』と聞かされていた那津は、霊樹の実であれば七瀬との話し合いで役に立つかも知れない‥‥と 思い、自分は一つだけ頂いて、他はあえて残しておいた。
実際は、交渉することさえ叶わなかったのだが。
キザシは那津の残した霊樹の実を掴む。
泣きながら一口かじる。
──俺は那津を助けるどころか、俺が助けられ、しかも那津の不老の体と死者の魂のことを探り出すことも出来なかった。
更に一口かじる。
──那津はこんな石がごろごろの場所にいるのはつまらないと言ってた。
俺と一緒にいたいと言った。
それなのに‥‥那津はずっとここにいると七瀬に誓った。
なあ? それは何百年?
俺を助けるために。俺のせいで。
キザシは、那津の残した霊樹の実を、一口一口を噛み締めながら全て食した。
そのまま小一時間ほどすると、霊樹の実の力で霊力が回復して来たのを感じて来た。
身体中の傷の痛みは半端ないが、これならギリなんとか安全なあの崖の巣まで行けそうだった。
──俺は甘すぎた。自らの霊力と力にうぬぼれて過信して、なんも考えちゃいなかった。
このままではあいつに勝てはしない。このままでは。
まずはこの傷を治す。
それから‥‥‥!!
キザシは、えいやっと半身を起こした。動くと全身についた傷がそれぞれ悲鳴を上げるように痛む。
──はんっ! 体痛ぇのなんて気にしちゃいらんねぇよっ!
キザシは左足の結婚印に触れる。
──俺たちは繋がっている。離れていても。
俺はこの世でただ一つの那津の印を持ってるんだ!
待っていろ! 那津。
キザシは夜明けを合図に大鷲に戻り、那津と二日間の濃密な時間を過ごしたあの巣へと飛び立った。




