別離
キザシは夕焼けが濃く赤く空を染め行く中、約束の場所に降り立った。辺りの木々も赤く照り返しを放って、おちつかない風のざわめきだけが、やけに大きく聞こえる。
「那津着いたぞ」
那津はキザシの背中から顔を出した。
「‥‥キザシ、話し合いじゃ。よいな? 七瀬は気難しい所があるが妾には親切であった。詳しく事情を話せば分かってくれるのじゃ」
「‥‥‥ああ、あいつ次第だがな」
七瀬の姿はまだなかった。
那津はキザシの背中からするすると翼を伝って地上に降り立った。もう慣れたものだ。
「那津は最初はあっちの繁みに隠れていろ。話し合いの頃合いを見て俺が呼ぶから。
「‥‥‥わかったのじゃ。キザシ、落ち着いて話すのじゃぞ?」
「ああ、わかってる。あいつには必ず那津に着けた印を外させる!」
話し合うなら人の姿だ。七瀬は人の姿で現れる。キザシが巨大な大鷲のままではいかにも喧嘩腰だ。
キザシは人の姿に変化 した。
那津とキザシは向かい合い両手を繋ぎ、那津はキザシの顔を見上げる。
見つめ合う二人の顔には緊張が滲んでいた。
「那津、待ってろよ!」
「‥‥‥はい。我が夫よ」
キザシは強ばりながら頷く那津を、ぎゅっと抱き締めた。
キザシの傍を離れることに後ろ髪を引かれつつ、那津は近くの繁みに身を隠した。
ざざざーっと、葉擦れの大きな音が吹き抜けた。空は既に帳が降りようとしている。
いつまでも姿を見せぬ七瀬に痺れを切らして、キザシは叫んだ。
七瀬は那津に授けた印により、那津がここに来ていることなどとっくに分かっているはずだ。
「来たぜ! 七瀬さんよ? 霊鳥大鷲キザシ、約束通りに来たぜ!」
その刹那。
キザシに金色の糸が巻き付いた。
「なっ!」
キザシはかろうじて立っていたが、糸が腕と脚の自由を奪った。
──この金糸! くっそ! 七瀬の野郎、いきなりこんな手を使って来るなんて!
キラキラ煌めく金糸は、前方の遠く離れた薄暗き繁みの方から来ている。そこは鯉の里の結界内。
──俺が入れねぇ場所からいきなり仕掛けて来るなんて、いけすかねぇ野郎だぜ!
那津はキザシの異変に気づき、繁みから飛び出した。
「キザシ! 七瀬はなぜいきなりこのような非道を! 七瀬! いるのかっ! 出て来るのじゃ!!」
那津は辺りを見回したが七瀬の姿はどこにも見えない。
「‥‥‥この糸の先に?」
那津が糸の先に、そろりと目を向けた。
「絶対そっちに行くなッ! 那津。そっちは鯉の結界内だ! そこに入られたら俺は那津を連れ戻せないッ!!」
木の葉による葉擦れのさざめきが、那津の不安をかき立て、姿を見せぬ七瀬の不気味さを漂わせた。
煌めく糸の先に向かって、那津は叫ぶ。
「やめるのじゃ! 七瀬! いるのであろう?」
無反応にも構わず、那津は渾身の声で叫んだ。
「七瀬! キザシを放すのじゃ! お願いじゃ!」
那津の目から涙が溢れ出た。
無反応に痺れを切らし、那津はならばとキザシに巻き付いた金糸をちぎろうと糸に手をかけた。
「やめろっ、那津! 触んなっ、指が落ちる!」
キザシが叫んだ時にはもう、那津の手から血が滴っていた。
「いいから、俺から離れてろっ! 俺ほどの霊力があれば大猿みたいに すぐに切られはしない」
そう言うキザシの腕と脚は糸が食い込みあちこちから出血していた。
「嫌じゃっ!」
那津はキザシの腰の短剣を取ろうとしたが、それも金糸に捕まっていて外せない。
「妾はどうすればいいのじゃっ! どうすればこれを切れるのじゃっ!!」
那津は混乱し、窒息しそうな目眩に襲われ、キザシの足元に崩れ落ちた。
「‥‥‥那津、怪我をしているではないか。見せなさい」
那津がビクッとして振り向くと、いつの間にか後ろに七瀬がいた。
「那津。心配した。無事で良かった、が‥‥‥。私の居ぬ間にどういうことだ? 我が妻よ」
那津は七瀬の着物につかみかかった。
「七瀬、今すぐキザシを解き放て。話さえせず、いきなり何をするのじゃ!」
七瀬は逆立つ那津を、片膝立ちし、右手で抱き締めた。
「心配したぞ、那津。帰るぞ」
「‥‥‥‥嫌じゃ‥‥‥」
那津は立ち尽くしたまま呟く。
「‥‥‥なぜ怒っているのか? あれは私は全く関係の無い緋鯉の女だ。追い返したから二度と現れぬ」
那津の髪を撫でながら諭すように言った。
「‥‥‥そのようなことはどうでもいいのじゃ。キザシを即、解き放てっ!」
那津は七瀬を思い切り突き飛ばした。
心外な顔をした七瀬が那津からキザシに目線を変えた。
「だが、この大鷲は那津を私から拐う、という大きな罪を犯した」
キザシは霊力を振り絞って金糸を切ろうともがいていた。しかし、金糸の食い込みを遅らすことしか叶わずにいた。
「違うのじゃっ! 妾を助けてくれたのじゃ。キザシにこれ以上傷ひとつ付けたら、妾はお前を許さぬ!」
七瀬は那津を哀しげに眺める。
「‥‥‥那津。なぜ、このような者を庇うのだ? 私がいぬ間に私の妻を盗み出した男なのに」
今はなんとかこらえて立っているキザシに、チラリと冷たい視線を送る。
「‥‥‥七瀬よ、すまぬ。妾はお前の妻にはなれぬ。約束を違えた代償は必ず支払う。だからお願いじゃ。この妾につけた七瀬の印を外し、キザシを解き放て!」
七瀬は眉間にシワを寄せ、困惑した悲しげな顔をした。
「‥‥‥なぜそのような悲しいことを言うのだ? どうやら那津は、この大鷲に騙されているのだろう」
「そうではないのじゃ‥‥‥妾は自分で決めたのじゃ。ここでは自分で決めていいのじゃ! だから妾はキザシと共に‥‥‥」
七瀬がクイッと左手の指を動かした。
「ぐがっ、ぐがあーーーっっっ!!」
那津の言葉の途中でキザシが叫んだ。
金色の糸がキザシの褐色の手足を深く切り始め、あちこちから糸を伝いポタポタと血が滴っていた。
「や、やめるのじゃ! お願いじゃ。七瀬! キザシが死んでしまうっ!!」
那津はぐしゃぐしゃに泣きながら七瀬の裾を掴んでぐいぐい引っ張った。
「‥‥‥ならば‥‥‥那津は私の下から去ろうとしてはいないのだな?」
那津は涙で視界がぼやけていた。袖で目を拭ってキザシを見る。
「ぐがっ‥‥‥、那津‥‥‥言うなっ!」
七瀬は無情にも、更に金糸を締め付けた。
キザシは耐えきれず地面に転がった。
倒れたキザシの回りには血だまりが広がった。
「このような忌まわしきことは‥‥‥やめるのじゃ‥‥‥嫌じゃ、キザシが死ぬのは。七瀬よ、キザシを解き放て。そしてキザシに酷いことを二度としないと妾に誓うのなら‥‥‥妾はずっとお前の妻でいようぞ。だから‥‥‥お願いじゃ‥‥‥キザシを助けるのじゃ」
「私にも誓うのか? 那津はずっと私の側にいると」
「誓うのじゃ! だから‥‥‥お前も妾に誓え! 二度とキザシに手を出さぬと!!」
那津は持って生まれた姫の威厳を漂わせ凄んだ。
「ふむ‥‥‥私の那津がそこまで言うのならそうしてもよい」
七瀬が右腕をサッと横に一振りすると、キザシに巻き付いた金糸がサラサラと光を放ちながら、既に薄暗い空中に溶けて消えていった。
「では、那津は自 ら、この大鷲の印を外して欲しい、と こいつに頼むのだ。那津の意思、を持って」
那津はよろよろとキザシに歩みより、倒れたキザシの脇に座った。
そしてキザシの顔を傷ついた両手で包んだ。
「キザシ‥‥‥すまぬ。妾はお前との約束を違えてしまった‥‥‥」
那津の目から、またとめどなく涙が溢れ出た。
「那津‥‥‥俺‥‥‥お前が好きだ。ずっと‥‥変わらない‥‥‥」
キザシの伸ばした左手が那津の右ほほにそっと触れた。
「妾もじゃ‥‥だが‥‥、このキザシの印を外せ。これは妻の命令じゃ」
「‥‥‥嫌‥‥だ‥‥‥」
那津は涙をぽろぽろ流しながら、それでも抵抗するキザシの手を掴み、那津の首飾りに触れさせた。
「早くおまえの妻の頼みを聞けっ! 聞かねば許さん!!」
──キザシは那津につけた印を外した。
「那津、帰るぞ」
キザシの横で座り込んで動かない那津を抱え上げた。
那津は焦点も無く、聞き取れぬ声でぶつぶつ何か独り言をつぶやいている。
倒れて動く事も叶わず、転がっているキザシに向かって七瀬は言った。
「那津の頼みゆえ、今回だけは見逃す。だが‥‥‥二度と私と那津の前に現れるな!」
七瀬は既に朦朧状態の那津を抱き、鯉族の結界の向こうに消えて行った。
既に暗闇と化した空の下、木々の隙間から星が瞬く。
「ごめ‥んな‥‥‥那津‥‥‥俺‥‥必‥ず‥‥迎え‥に‥‥行く‥から‥‥俺‥を‥‥信‥じ‥‥‥ろ」
キザシは残りの力を振り絞り、叫んだ。
しかしそれは、掠れた呟き程度にしかなってはいなかった。
キザシはもう瀕死の状態で、もう一人で何をどうすることも出来やしない。
霊力も底をつき、このままでは死を待つのみだということは、半分自覚していた。
──なあ、俺の声、那津に届いたのかよ?




