那津の印
霊樹の実がたわわに実っている一枝を持ってキザシの巣に戻った。
「俺はいいから、那津に全部やるよ」
「ありがとう、キザシ。では今は一つだけ頂こうかの」
那津は丁寧に実をもいで、うっとりと観賞してから一口、小さくかじる。
キザシはあぐらをかき、目の前で霊樹の実を頬張る那津を楽しげに眺めながら、よいことを思いついた。
「ここの横に屋根がある人形用の二人の小さな部屋を作ろうぜ」
那津の笑みが不意に消えた。
「‥‥‥キザシ、妾は夕べ考えたのじゃ」
那津は、キザシの正面で足を整えスッと正座した。
やや目線を下げたまま、話し始めた。
「‥‥七瀬もキザシも、気づかぬ間に妾に婚約印をつけていた。妾の七瀬との婚姻も成り行きじゃった。七瀬が妻となるようにと言って来た時に、妾はうっかりうなずいてしまっただけなのじゃ。妾はな、婚姻とは誰かに決められるのが当たり前だと思うておったし、だから従ったのじゃ。そして、昨日はキザシが妾を助けるためだと結婚印をつけた‥‥‥」
数秒の沈黙の後、思い切ったように顔を上げてキザシと目を合わせた。
「これはどちらとも妾が望んで決めた事ではないのじゃ」
「‥‥那津! 確かに俺は強引だった。それは謝るさ。でも俺‥‥‥那津を助けたいんだ。俺と番は嫌なのか? 俺が好きだって言ったよな?」
「妾はキザシが好きじゃ。お前といるとすごく楽しいのじゃ。だが、これがキザシの言うところの、番に対する『好き』、なのかはようわからん」
「でも、那津は俺のこと、『我が夫』って言ったよな。霊樹の木で」
「言ったのじゃ。妾はキザシが夫ということが不満なのでは無い」
「じゃあ、何?」
「妾は姉の蓮津のことが誰よりも大好きであった。だがその『好き』と、キザシに対する『好き』、の違いがわからんのじゃ。同じような気がするでの。そこがもやもやしておるだけじゃ」
那津は眉根を寄せて自分の手の甲の鱗を見た。
「‥‥‥七瀬はたぶん現世の殿方と同じように、正妻と側室がいるのじゃな。その一人があの赤い髪の女なのじゃろう。それは妾には黙っていたのじゃろうな。妾は同情は要らぬと申したが、放っておくにもいかず妾の世話を焼いたのじゃ」
赤い髪の女は、七瀬の名を出し那津を追い出したのだから、状況判断で那津としてはそう考えざるを得ない。
七瀬の多妻は実際は誤解であったが、那津が知るところではなかった。
那津の思いはもう定まっている。
那津としては、あのような意地の悪い正妻のいる七瀬の側室にいるのは耐え難い。
それに、河原は退屈であった。キザシと過ごしていた方がよっぽど楽しい。
霊界では誰か頼らねばならないのなら、このままキザシといたかった。
霊界で目覚めて以来、キザシと過ごしたこの二日間ほど居心地良く楽しく過ごした時は一日とて無かった。
その那津の気持ちは、『七瀬と赤い髪の女との真偽を確認するべきだ』、という道理など、無意識に覆い隠していた。
「妾はキザシにも七瀬にも恩がある。妾はこれからはキザシといるのじゃからこの先恩を返すことは出来よう。しかし、七瀬には返す当ても無い」
キザシは、ほっとした声になった。
「那津、借りを返すなんてこと、後からどうにでもなるさ。それに那津はもう現世の城の姫じゃない。自分の事だけ考えろ。自由なんだ。心も体もな」
「‥‥‥妾はもう姫じゃない?‥‥‥そうじゃな‥‥‥自由だったのじゃな。気づくのが遅かったがの」
──妾は七瀬にうなずいてしまった。結婚印も授けられている。
自尊心の高い七瀬のこと、やはり話し合いがすんなり行くとは思えんのじゃ。
妾のことがどうこうではなく、自分の妻を奪われる、という顛末が気に入らなくて、七瀬は妾たちを許さぬのではないかの?
世話になった恩は後で返すにしても、姫でなくとも婚姻の約束を違える場合は代償が必要じゃ。それは現世でも霊界でも同じなのではないかの? キザシよ。
妾は、七瀬の怒りを鎮めるために代償がいる。今の妾にはあれしかない。じゃが、あれで足りるかのう‥‥‥?
「‥‥‥心配すんな、何とかなるさ。那津? そんな不安そうな顔して」
キザシは那津を励ますためににこりと笑って見せた。
「‥‥‥‥」
那津は、そんなキザシの優しさを嬉しく思う。
──そうじゃ! 嵐の前の今のうちに。
那津は正座姿勢から身を乗り出してキザシに尋ねた。
「なあ、キザシは妾をたくさん助けてくれたし楽しませてくれた。だが妾はキザシに何もしてあげてないのじゃ。何か妾に出来ることがあったら言うのじゃ。妾はキザシに何かしてあげたいのじゃ!」
「なっ、なんだよ、急に。‥‥‥那津は俺の妻なんだから助けるのは当たり前じゃん」
不意に那津の顔が、目の前に迫って来たので焦ってしまう。
「ふうん、まさか、七瀬のように意地悪な正妻が後から現れる‥‥などということはあるまいな?」
「ふぁぁっ!? なんだそれ? あるわけないじゃん。番 は一対に決まってんだろ! 鳥なんだから‥‥‥そんなことも知らねぇのかよ?」
キザシは那津の邪推にめんどくさそうに答えた。そして斜めに那津を見下ろして、刹那 ニヤりとした。
「ふふ‥‥‥なんだよ? もしかして、焼きもち? ま、俺はわりとモテてはいるけど。死人の道の仲見世通り辺りに行けばさ、若いねーちゃんが、まあまあ あちこちから寄って来ること寄って来ること‥‥‥」
那津の焼きもちらしき発言に気を良くし、ニヤニヤを堪 えながら那津の顔色を伺う。
「む、む、む‥‥‥キザシ! これは妻からのお仕置きじゃ!」
那津はキザシを押し倒し腹に乗って脇をくすぐり始めた。
「うわっ! くっ、くすぐったいだろ、や、やめろっ‥‥! ったくさー、那津は‥‥‥俺にこんなことしっちゃってさ、何も分かってねーなっ!」
「負け惜しみはそれだけか? ふっふ、妾の勝ちかのう~?」
「ま、参った! 降参だ‥‥早く‥‥‥早く俺の腹の上から降りてくれ‥‥‥じゃなきゃ‥‥‥俺‥‥‥」
「いかん! 苦し気な赤い顔じゃっ。すまぬ。妾はそんなに重かったかの?」
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それから、キザシは巣立ってからの冒険譚を、那津は現世の城での楽しき思い出話をして過ごした。
「妾は良きことを思いついたのじゃ!」
那津は自慢の黒髪を襟足から一筋つまみ出した。
チマチマと編み込んで長い紐を作った。
「‥‥‥‥せーのっ!」
ミリっと小さな音がした。
「痛いのじゃ‥‥‥‥キザシが作った時はそんなに痛そうにはしていなかったのじゃ」
何を始めたのかと見守っていたキザシはハッとした。
「那津‥‥‥それ、まさか‥‥‥」
襟足を押さえ、痛さで涙目になりながらキザシを見た。
「キザシの首飾りのお礼じゃ。妾のは、かわいいふわふわの羽根がないがのう」
「‥‥‥ありがとう、那津。ここに着けてくれないか?」
那津はキザシの左足に三重の輪にして結んだ。
「こんなんでよいかの? これは妾の印じゃ。霊力も無くて何の役にもたたんが」
「‥‥‥那津」
キザシはそっと那津を抱き締めた。
秋の日の日暮れは早い。もう日差しは傾きつつあった。
「那津、行くぞ! きっとうまくいくさ。心配すんな」
「‥‥‥そうじゃな、キザシ。妾も出来るだけのことはするのじゃ」
──七瀬との約束を違える代償は? 七瀬は何を望む?
妾は追い出されたのじゃからそこまでの無茶振りをして来ぬことを願おうぞ。
那津を乗せたキザシは、日差しが傾き始める前に約束の場所へと飛び立った。




