幸せなひととき
明くる日の朝、キザシは那津を崖下の小さな滝の下にある泉に連れて行った。
「うわぁ、なんてきれいな水たまりじゃ!」
キザシの翼からスルリと滑り降り、澄んだ泉を覗き込んだ。
透き通った浅い水の中には小さな魚が小さな数匹の群れを作りつんつんと泳いでいる。
「ここも気に入った?」
キザシは大鷲の姿のまま、ザブザブ水の中に踏み込んだ。
「もちろんじゃ! 妾はこのような所に来たのは初めてじゃ!」
泉の中央からキザシが声をかけた。
「俺はここで水浴びするからよぉ、ちょっと離れてろ。すっげー水飛ぶからな」
キザシは羽をバタバタ振る。泉の水が辺り一面に散り、離れていても那津の上に雨が降った。
「妾もとうにびしょ濡れじゃ。と、なれば妾も もちろんやるのじゃ!」
那津は突然着物を脱ぎ捨て、水に飛び込んだ。
「うわー! 冷たいのじゃ! あはははっ それっ! 仕返しじゃっ!」
那津は手で水をすくってキザシに向かってかけたが、キザシの足元に ピチャンッと落ちただけだった。
キザシは、自分の下の方で、突然裸で水をかけて来た那津の存在に気がついた。
「うわっ!! 那津! おまえ何やってんだよッ!」
キザシを見上げ、手を止めて首を傾げる那津。
「何って‥‥‥キザシと同じことじゃが?」
「人形が人前で裸になるなんて恥ずかしいだろ!」
「そうなのか? 妾の湯浴みの時は何人もの侍女が裸の妾の世話をしていたぞ? それに夫婦同士は見せてもよきとお恵から聞いておったのじゃが‥‥‥ここでは違うのかのう? まあ良い。ここには他に誰もいぬ。そーれっ! 妾の反撃じゃっ!」
那津はキザシに向かって両手で掬った水を思い切り飛ばした。
「えーいっ!」
それはキザシの脚の手前でピチャン、と小さなしぶきを飛ばして終わった。
「‥‥‥‥‥くすっ。じゃ、今度は俺の番だな? 那津」
キザシは目を細め、濡れた翼を上に広げ、那津の上でバタバタ震わせた。
那津は突然の大雨に、きゃぁきゃぁはしゃぐ。
二人だけの楽しい時間。
キザシの心は満たされる。
巣立ってからというもの、迎える困難も自力と運で乗り越え、孤高に過ごして来た。今までの時間とは比べ物にならない、愛 おしい時に思える。
「ああ、楽しかったのじゃ! な、キザシ」
びしょびしょで泉から上がった那津は髪を絞った。
「二人とも乾いたら、霊樹の実を取りに行こう。あれを食えば那津の霊力も貯められる」
「わーい! あれはほんに可愛らしい上に美味しいのじゃ」
那津は笑顔満面でキザシの脚の周りをくるくる回った。
キザシはそんな那津を見て心が満たされて行くのを感じられずにはいられない。
──那津がいるだけで俺の世界が変わって行く。
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「ほおー。これが霊樹の木なのか。りっぱな木じゃが、思いの外 普通の木じゃのう。妾は古代樹のような巨木かと想像しておったのじゃ」
可愛らしい甘い香りを放つ白い花が咲いているにもかかわらず、同時に実がなっている不思議な木を、人形 のキザシと見上げていた。
「これは年中花が咲き実がなる不思議な木なんだ。この地面の生み出す霊力を吸い取り、それを実に溜める。滅多にお目にかかれないぜ? こんな森の奥にひっそりと生えているんだから。森の奥なんて来られるやつは限られているし。他にもどこかに生えてるかも知れないけど、俺の知る限りじゃここにしかない」
「確かにそうじゃな。歩いてここにたどり着くのは困難じゃろう。途中、危険な霊獣もいるのであろう? ここにも大猿や似たような狂暴な輩 が現れねば良いが‥‥‥」
恐々辺りを見回した。
キザシがここの上空に現れたと同時に小鳥たちは一斉に飛び立って散って行ってしまった。
今は、そよ風が葉擦れの音をかさかさと時折響かせているだけだった。
花に蜜蜂が寄っている以外、他の生き物の気配は皆無に思えたが、那津は、どことなく不安だ。
大猿に殺される寸前の恐ろしい体験は、那津の記憶にこびりついていた。
「大丈夫、那津には俺がついてる」
キザシは那津の肩を隣に抱き寄せた。
「そうじゃな、キザシがいれば、いざという時は飛んで逃げられるしのう。頼もしいのじゃ」
微笑みながらキザシを見上げる那津は、あの時の残りの大猿2匹がキザシによって既に片付けられたことは知らない。キザシも那津には言う気はない。
「‥‥‥そうだな、もうあいつらとは二度と会うこたねぇだろうけど。那津、覚えとけ。霊界ではな、どこでどんなとんでもないやつが生まれているか知れない。マトモに知能さえない狂暴な生き物が突如現れることだってあるんだぜ?」
「そういえば、七瀬からも同じことを聞いたのじゃ」
「‥‥‥そうか」
七瀬とは今日の夕方に決着をつける手筈になっている。
キザシの目の奥で闘志が燃えた。
「さあ、早く実をもいで 俺らの家に戻ろうぜ。俺が登って取って一枝落とすから那津が受けとれよ。いいか? 落とすなよ! 傷つくとすぐ痛むからな」
「せっかくここまで来たのじゃ。妾も登りたいのじゃ!」
「ったく、お転婆姫だな。さっきも丸裸ではしゃぎやがって! こっちの身にもなってみろってんだ」
キザシはぶつぶつ言いながらも那津を片手に抱くと首に掴まらせて苦しい姿勢で木に登り始めた。
「妾は重たいのかの?」
「重くはないけど‥‥‥何て言うか‥‥‥」
気恥ずかしい。
キザシは実がほどよく紫色に熟している枝を探し、手折って那津の帯の後ろに刺した。
「よし、収穫完了! 降りるぞ」
「さすが、我が夫! 頼もしいのじゃ」
那津は、するすると木から降りるキザシの首に抱きつきながら キザシの耳にくちびるを寄せ言った。
まだ恋に目覚めていない那津の、あくまでも無邪気な弁と振る舞いだった。
キザシの耳が赤らんだ。




