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生まれた疑惑

 はるか下に広がる眼下の樹海の上を滑空するキザシ。

 

 那津は巣の縁の大きな枝につかまりながらキザシの姿を目で追った。


 

「うわー!キザシ、見事じゃ! かっこいいのう」



 初めて見る景色に心が踊る。

 

 あの背中に自分が乗っていたなんて信じられない気持ちだ。

 

 那津は現世では少しはふわふわ浮くことが出来たのに、霊界ではなぜか浮くことはかなわなかった。

 

 那津はここに来てからも他に人の霊など見かけたことすら無く、本来の人間の霊体とはどういうものかということもはっきりとはわからない。

 那津は不老を授かっているのでもしかしたら他の人とは異なる点があるかもしれないと考えてはいたが、比べる相手さえいなかった。

 

 知ったからと言って、何かが変わるわけではないが、慣れぬ霊界ではやはり不安がつきまとう。

 


 ここに来てからのことを薄ぼんやり考えていたら、にわかに風が強まって来た。

 

 キザシが帰ってくる!

 

 那津は一番奥の壁際まで下がって備えた。

 

 

 バサバサという翼の音と共に強風に煽られた。


 

 キザシのご帰還だ。

 

 本来よりずいぶん縮んで那津と同じくらいの大きさを取っていたが、それでも凄い風が吹き荒れた。

 

 

 巣に入る直前、くちばしに咥えた いくつも実のついた枝をぱっと放すと瞬間人の姿に変わり、右手でぱっと受け、スタッとしゃがんで着地した。

 

 

「おおー! 見事じゃ、キザシ」

 

 

 那津は、奥から赤ん坊のようにハイハイしながら近づいた。

 

「ただいま、那津。なんだよ? その格好は」

 

「だって仕方あるまい。風が凄くて妾は吹き飛ばされそうじゃったし。妾は飛ぶことも浮くことも出来んのじゃ」

 

 那津はキザシの前で下に足を伸ばしてぺたりと座りこんだ。

 

「マジかよ? ゴメンな。そうだよな。那津は本物の人間だったんだから。ちょい待って」

 

 

 キザシは美しい紫色の実がたわわに実った枝を那津に渡すと、空いた手で手印を結び、口の中でぶつぶつ念仏のような呪文を呟いた。


五感清浄(ごかんしょうじょう)急急(きゅうきゅう)如律令(にょりつりょう)、結晶結成現象顕現げんしょうけんげん帳蘇婆訶とばりそわか、はっ!」



 天を指差し、仕上げの呪文を唱えた。


 そして周りを見回して小さく頷いた。

 


「よーし、出来たぞ! 那津にも見えるか? この結界の膜。よーく見てみろよ。ほら、この巣の周りには壁が出来てる。触って確かめろ」

 

 

「壁が? ここにあるのかのう? 妾にはさっきと変わらぬ景色じゃが。ただ、確かに先程から吹き抜けていた風が止んだのじゃ」

 

 那津は恐る恐る巣の縁のくうに手を伸ばすと、もわんと跳ね返された。そこには確かに目には見えぬ膜があるらしい。

 

「確かに見えぬが柔らかな壁があるのじゃ‥‥‥不思議じゃ‥‥‥」 

 

「これは単純結界。人間の家の壁と同じ働きだ。風や雨も防げる。霊力の弱い那津なら通れないから落ちない。俺にはこれでは弱すぎて効かないから飛ぶのにも支障はない」

 

「あるのはわかったが、妾には見えぬ。鯉の里の結界も見えなんだ」

 

「たぶん、霊力が弱いせいだな。そこでほら、その俺が持って来た実の出番だぜ」

 

 

 那津は手に持った枝をしげしげと見た。

 

 

「これか? おお、なにやら甘いかぐわしいい香りがするのう」

 

「これはな、『霊樹れいじゅの実』って言うんだ。この下の森の中にその木があるんだけど、そこまで取りに行ける奴はそうそういねぇからな。結構な幻の実だぜ。これウマいから食ってみな。これを食えば精力がつき霊力も貯まる。そしたら結界も見えるようになるかもな」


「妾のためにありがとうなのじゃ。それにしても、かわいらしい実じゃのう。食べてしまうのは惜しい‥‥‥」

 

「那津のためなら何度でも取って来てやるさ。さあ、食いな」

 

「‥‥‥では、ありがたく頂くのじゃ」

 

 

 那津は枝から丁寧に一つ実をもいで両手で包み込んだ。 

 

 両手のひらに収まる大きさの紫色のまあるい果実をうっとりと観察した後、思いきって一口かじった。

 

 口の中にみずみずしい爽やかな甘味が広がった。

 

 那津の顔がほころぶ。


「みずみずしくて甘酸っぱくておいしいのじゃ! こんなに美味なものを頂くのは本当に久しぶりじゃ。妾は基本食事は無くてもよいのじゃが、やはり食べることはありがたく幸せなことじゃ。死人なのに食いしんぼうとはおかしいかのう? えへへ」


 那津はいたずらっぽく笑った。


「死んだって心はあるんだ。おかしくなんてねえよ」


キザシは那津の肩を引き寄せた。

 


「‥‥‥キザシは妾のような霊などとつがいになってどうするつもりじゃ? 妾はお前とつがいになったとて何の役にも立つまいに。妾は死んでしまったゆえ婚姻により清瀬川家とキザシの家を結びつけることはもう出来んのじゃ。それなのに七瀬といい、お前といい、なぜ妾と縁組みなど考えるのか全くわからん」

 

 

 那津が横からキザシの横顔を見上げた。

  


「家と家って何だよ? 俺たち大鷲は生まれて飛べるようになったらもう一人立ちだ。巣立ったらもう親も兄弟も関係無い。自分のことは自分で決めながらこの無限の霊界で自由に生きて行く。那津は違うのか?」


 キザシは不思議そうに那津を見た。

 

 

 那津は婚姻については未だに現世での倫理に縛られていた。

 婚姻は自らが決める事ではないし、姫ならば決定通りただ従い、嫁ぎ先で最善を尽くすものだと。


「ここのことは良く知らなんだが、城の姫として生まれた妾のすることの全ては親や周りの見識や学識ある者らが決めるのじゃ。婚姻とて、見たこともない男に嫁ぐのが普通じゃ。しかも家の政略のため、突然離縁させられたり、また違う男に嫁がされたりすることもあるものじゃ。妾の姉上の蓮津は大変美しい女子(おなご)ゆえ、相当の権力者に見初められた。今頃は見たこともない男に嫁ぐ直前じゃ。が、それも城の利ため、当然のことじゃ」

 

 

 キザシは気の毒そうに那津の横顔を見下ろす。


「じゃあ、那津はここに来て良かったじゃん。もう那津は自由になったんだ。好きに生きればいい、って死んでるけどよ」


 

 キザシは肩を抱いた那津の頭を自分に引き寄せた。


 

「‥‥‥わからんのじゃ。お前らが自由なら尚更じゃ。なぜ妾と婚姻しようと思うのじゃ? 妾と縁を結んでも何にもならんのだぞ?妾にはもう何もないのじゃ。清瀬川家との縁も持参金も何もないのだぞ? もう清瀬川家を寝返りさせぬための人質にさえならん。他に何の利益があるというのじゃ?」

 

 

 那津は下から覗き込むようにしてキザシの目をじっと見ている。

 

 キザシは呆れたように小さく息を吐いた。

 


「バカだな、那津は‥‥‥」


「う? 何を言う。城では、『那津は賢い』と、みーんな言うておったぞ!」

 


「‥‥‥那津はまだちっこいからよくわかってねぇんだな。誰だって好きなものを手に入れたいと思うだろ? 那津だってうまそうな果物が目の前にあったら欲しいと思っただろ? つがいの相手だっておんなじさ」


 

 那津は、ばっとキザシの肩の手を振り払い、目を見開いて後ずさった。

 


「な‥‥な‥‥なんとそうであったのか! おかしいと思っておった。妾など全く役に立たぬ厄介者なのにつがいの相手にしようなどと‥‥‥。急に腹が減った時に妾を食う気だったのじゃな!」


「ばか! いい加減にしないと本気で怒るぞ!!」


 

 キザシの凄い剣幕に那津は飛び上がった。

 

 こんなに怖いキザシは初めてだった。

 

 先ほどまでの心地よい空気は一気に吹き飛んだ。



 沈黙が続く。


 ふと、気まずさから目線を外に外した。


 日の高さを見れば、いつの間にか昼下がりになっているのに気づいた。

 

 

 

 おずおずと那津が言った。


「ち、違っていたのか? す‥‥すまなかったのう。妾とてまさかキザシが今さら妾を食らおうとしているなんてわずかにも思ってなどいなかったのじゃが‥‥‥。キザシが、うまそうな果物とつがいの相手は同じなどとというから‥‥‥その‥‥‥」

 

 

 キザシに怒られたのは、なぜか心に痛い。

 


 ふんっ、と鼻で息を吐いてからキザシは言った。

 


「俺が言いたかったのは、好きな女とつがいの相手が同じということに決まってんだろ!」


「なんと! キザシは妾のことが好きでつがいにしたのか? 妾がかわいらしい果実や南京豆のあられをこの上もなく好んでいるように?」



『好きでもない女のために霊樹の実をわざわざあんなとこまで取りに行くバカがいるかよっ! くっそ鈍い女だなっ』

 

 キザシは、那津には聞こえぬように後ろを向いて小声でイライラを吐き出した。

 

 

 

 気を取り直し、那津に正面から向き直る。 


「那津は俺が好きじゃないのかよ?」


「妾はキザシが好きに決まっておるではないか!」


 那津は即答した。


 

「‥‥ふっ、そうだろうな。わかってたって」


 

 キザシは左手でこめかみをおさえて小さく頷く。

 


「大猿の時も、今日だって檻から妾を助けてくれたし、おいしい果物も取って来てくれたのじゃ。こんなにすごい所にも連れて来てくれたし、悠々と飛んでるところもかっこいいのじゃ」



「‥‥‥那津」

 

 

 キザシは那津を抱き締めようと動き出したその時、那津は言った。

 


「だが、七瀬も好きじゃ。妾を鰭袋で守ってくれるし現世にも連れていってくれた。そういえば妾が帰らないとまた泣いたり怒ったりするのじゃ。そろそろ妾は帰るのじゃ」

 

 

 キザシが愕然とした。

 

 那津の『好き』、はただの感謝であり、恋でも愛でもなかった。それは七瀬に対しても自分に対しても。

 

 それでも、キザシはもう那津とは印を結んだ。那津を手放す気は無い。



「な、何いってんだ!那津は俺と(つがい)になったんだろ! 番になったらもうずっと一緒にいるものなんだ。それはどちらかが死ぬまで続く。あ、那津は死んでるから成仏するまでだな。俺が死ぬとき一緒に成仏すればいい。だからもうあの鯉野郎とは関係無いんだ! それにあの男には他の女がいる。那津だってその女に追い出されたんだろ!」



「‥‥‥そうなのじゃが‥‥それとのう、まだ言うてなかったが、妾はたぶん200年ほど先までは成仏出来そうにないのじゃ。妾の不老の生きた体があるのでな。だからこうして霊界に留まっておるのじゃ」


「‥‥‥なんだと? どういうことだ?」


「妾は七瀬に飲み込まれて死んだ時、七瀬の腹の中でうまい具合にいくつかの霊力が交ざりあって不老の体が出来上がったそうじゃ。滅多に無いことらしいのじゃがな。だから妾の体はまだ生きていて年頃まで育つのじゃ。だが妾は死人の魂になってしもうて、もう元の体には入れんのじゃ」



 「‥‥‥ちょっと待て‥‥そんなばかな! いくらなんでもありえねぇ‥‥いくらなんでも‥‥‥」




 それからキザシは黙りこんでしまった。


 風の音だけが通り過ぎていた。



「那津、少し休もう。一人で考えることも必要だろ? お互いに」


「そうじゃな。妾はこちらに来てからこの短き間に二度も婚姻したなど、自分でも何がなんだか‥‥‥」


「‥‥‥俺とでは不満なのか?」


「そうではないのじゃ。ただ、妾は七瀬に黙ったまま今度はキザシと婚姻というわけにはいかぬのじゃ」


「‥‥‥もちろん俺が七瀬と話つけるさ」


 

 那津は大鷲に戻ったキザシの柔らかく温かな翼の内側に包まれたら、いつの間にか眠ってしまった。


 

 

 だが、キザシは眠ることは出来なかった。

 

 

 大鷲の眼は、訝しい物を見るように遠くの夜空を焦点も無く見つめていた。





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