意図せぬ承諾
「では、私の妻となると言え。それだけでよい」
「だから、それはもういいと言ったではないかっ!」
那津は遂に癇癪 をおこし、左手をぶんぶん振って七瀬の手を振りほどこうとしたが七瀬は握って放さない。
七瀬はあくまで冷静だった。
握った那津の左手の甲に口づけをした。
「なぬっ!?」
那津は目を見開いた。
「私の幸せを本当に願っているというならば私の妻になれ。それとも私の幸せを願っているというのは出任せだったのか?」
七瀬の瞳がわずかに潤んでいる。七瀬の眉が心の中の苦しさを物語っている。
七瀬が余りにも真剣な様子なので那津はびっくりして固まった。
男に乞われたことすら初めての経験だ。もとより恋など知らぬし、想像すらつかない。
那津にとっての婚姻は、あくまでも家同士の政略でしか存在はしない。
結婚相手は誰かが勝手に決定するもので、それに従う。決して自分が決めるものではないのだ。
そのお家は無くなった今、自分はどのような婚姻をするのかは自分でも定かでは無い。
「どうなのだ? 那津! お前は私の幸せを願ってくれているのか?」
今や七瀬の声は苦し気な響きさえ帯びている。那津は思わず固まったまま、うんうんと頷いた。
「それならば私に何回言わせれば気がすむのだ!‥‥私の妻になれ!」
握った那津の左手に自分の額を押し付けた。
「頼む‥‥‥」
小さくつぶやいてから那津の瞳を見つめた。那津の手を握った七瀬の手が震えている?
どうしたら良いのかわからないまま、那津は小さく頷いた。
──途端、七瀬の右の広角がニヤリと上がった。
「よし、決まりだ。これはもう変えられぬ」
瞬時、いつもの冷淡な顔の七瀬に戻った。先ほどまでの那津への懇願は幻の体 だ。
七瀬は那津の手を解放するとさっと立ち上がった。
「なっ、なにっ!?」
七瀬の豹変ぶりに驚かずにはいられない。
「ややっ?‥‥‥何だったのじゃ? 今のは‥‥‥」
那津は狐につままれたような気持ちだ。
「私が那津に求婚し、那津が承諾したのだ。それだけだ」
「‥‥‥‥そうなのか?」
「そうなのだ。では早いほうがいいだろう。右手を出しなさい」
状況がよく飲み込めまま、言われるままに那津が右手を出すと、七瀬は那津の右手の甲にも霊力を込めた自らの鱗を貼った。
「左手は婚約印、右手は結婚印だ。これで、我らは夫婦となった。実質的な結婚は3年後からでよい」
那津は、一枚づつ七瀬の鱗を貼り付けられた両手の甲を並べてしげしげと見た。
「妾と七瀬が夫婦とな? まあ、城の姫となればいつかは親の決めた見ず知らずの男に輿入れするのが常じゃが‥‥‥。妾もそのような覚悟で生きておったが‥‥‥これは早急過ぎではないかの?」
那津は眉根を寄せ、自分の手の甲から七瀬の顔に視線を変えた。
「那津は私では不満だとでも?」
七瀬が高飛車に那津を見下ろしたのを見て、那津はこれ見よがしのため息をはぁ~と吐いた。
「‥‥‥七瀬はすぐ怒るでの。だが‥‥‥お前の鰭袋はなかなか良い。妾の部屋が再現出来ておるからな。あれは南京豆のあられに匹敵する出来の良さじゃ」
七瀬が小さく頷く。
「‥‥あの大鷲のふわふわというのと、どちらが上なのだ?」
那津の首に通されたキザシの羽の首飾りをちらりと見た。
「‥‥‥うーん、それは甲乙つけがたいのう。どちらも一長一短あるしのう‥‥‥」
鰭袋は安全で居心地は良いが、あの一部屋に閉じ込められてしまうのはつまらない。
大鷲のキザシの羽の中は居心地は最高で、しかも上空から果ての無い景色が見られる。しかし、飛行中は風がきついし動き回ることは叶わない。
七瀬の眉間にしわが寄った。
「所でその首飾り‥‥」
「これは、キザシが出会った日の記念に妾にくれたのじゃ。キザシが羽と髪で器用に作ってのう。だがこれは結び目もとれないしこの長さでは頭も通らなくて外せないのじゃ。でも鳥の羽はきれいだし妾はかまわんぞ。艶やかな羽根の根本にはふわふわの綿毛付きじゃ! かわいいのう~」
「羽と髪‥‥やっかいな‥‥。私に見せなさい。後ろを向いて」
那津は長い黒髪を片方に寄せた。
七瀬はこのキザシが付けた婚約印を外さなければならない。
これを外さなければ那津との結婚は完全とは言えないのだ。
「くっ!」
七瀬は、那津の細い首の後ろに現れた首飾りの結び目に霊力を流してみたがはじかれた。
この霊鳥大鷲の体の一部で作られ、霊鳥大鷲の霊力の込められた婚約印を刃物などで無理やり外せば、那津にどんな報復呪術がかかるか分からない。
ひとまずあきらめ、那津に向かって注意した。
「那津、この霊界で知らぬ者からむやみに物を貰ってはいけない。特に霊獣の体の一部分を、しかも霊力まで入れたものを身に付けてはならぬ。わかったな!」
自分と同じように、那津に黙ったまま婚約印を授けていたキザシ。
男心に鈍い那津は、自分があの霊鳥大鷲のキザシに気に入られ、キザシとも婚約してしまったことを知らない。
「‥‥七瀬はこのようなことで怒ることあるまい。妾とて可愛らしいものやきれいなものは好きなのじゃ。あや? もしかして七瀬は‥‥‥?」
那津は、面白いことに気づいたようにニヤニヤした。
七瀬は狼狽を隠しながら、にやける那津をちらりと一瞥してから横を向いたまま話した。
「もしかしてとはなんだ? 私はそのような下らないものに嫉妬など‥‥‥」
「やはりな‥‥‥」
那津は更に にやついた。
「やはりなんだというのだ!」
七瀬の白い首筋に色がついた。
「わかっておる。七瀬もこれが欲しいのだろう。こんなに美しい羽の首飾りは他には無い。よいよい。もしまたキザシに会うことがあったら妾が七瀬の分も作ってくれぬか頼んでみよう」
那津は嫉妬の対象を勘違いしてくれたので七瀬の面目は保たれた。あの小僧とも言えるまだ子どもじみた大鷲に嫉妬しているなど、黄金の鯉の誇り高き自尊心が許さない。
七瀬から安堵の深いため息が出た。
「‥‥‥もうよい。さあ、疲れたであろう。我が妻よ。鰭袋で休むがいい。まだ夜明けまでには間がある」
那津を左腕に抱え、さっさと鰭袋にしまい込んだ。




