求婚
那津は七瀬の鰭袋の中で半分寝て半分起きていた。
心地良さに包まれながらぼんやり考えていた。
──霊界はこんなに恐ろしい世界であったとは‥‥‥
妾はずっと鯉族の結界に守られていたのじゃ。道理で辺りには他に誰もいないはず‥‥‥
妾は七瀬に食われて死んだとはいえ、これ以上世話になるわけにもいかぬ。やはり妾は現世に戻って城の者らと一緒にいたいのじゃ。
幸い妾は南京豆のあられを持っているゆえ、これを駄賃に七瀬に今一度現世に連れて行ってもらおう。妾の不老の体は珍しき貴重なものらしい。この際、もう妾の役に立たぬ体など七瀬に譲ってしまえ。
うとうとしてると七瀬の声がした。
《那津、具合はどうだ?》
《‥‥‥七瀬か。妾はもう大丈夫じゃ。世話をかけてすまなかったのう‥‥‥》
《そう思うのなら、これからは勝手に結界から出る出るな》
顔も会わせず話が出来る今ならば言いやすい。那津は鯉の里でずっと世話になるために戻って来たわけではない。
《妾は七瀬に言いたい事があって戻ったのじゃ。聞いてくれるかのう?》
《‥‥‥手短に言え》
七瀬に不機嫌が混ざり出したのを、那津はその口調で感じとった。が、どうせ言わねばならぬことだから、はっきりと今、伝えることに迷いは無い。
《では言う。お前は妾を食って死なせた責任感と成仏出来ぬ妾への同情から、まだ大人とは言えぬ妾と婚約するなどという真似をしたのだろう? 肝心の妾には何も告げぬまま。だがな、いいのだ。そもそも妾が皆をだまし井戸に飛び込んだのがいけなかったのじゃ。自業自得。因果応報。だから‥‥‥妾のことはもうよい。七瀬は妾ではなく七瀬の想い人と添うがよい。それでのう、相談じゃ。妾の南京豆のあられと交換で現世に今一度連れていってくれんかのう? 不老の体も妾には不要じゃ。妾は成仏出来るようになるまで城を見守って過ごしたいのじゃ』
《‥‥‥那津の言いたいことはそれだけか?》
《そうじゃ。それと、大猿から助けてくれてありがとう。あの婚約印が護ってくれたんじゃろう?》
《‥‥‥それは那津が私に助けを求めたからだ。那津は私を必要としていた》
《うーん‥‥‥そうじゃったかのう? 恐ろしくてよく覚えておらんのじゃ。だがこの鱗は返さねばならんのう‥‥‥』
──輿入れし、城を去り行く蓮津に、黄金の鯉の鱗を餞別にしたかったのだが、もうこうなっては諦めるしかあるまい。
《‥‥‥‥私からも話がある。明日河原に出て顔を見ながら話すとしよう》
那津は言いたかったことが伝えられたため、少しほっとしてすぐに深き眠りについた。
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《那津! 起きろ。 つべこべ言わず すぐに出てこい》
那津が出ると、そこはあの河原の石ころの上だった。
今は真夜中のようだ。現世同様に空には星が一面に輝いている。
心地よい夜風が吹き、リーン、リーン、クツクツと、きれいな虫の音の重奏が響いていた。
「礼を言わねばならぬ。七瀬の鰭袋のお陰で妾はすっかりよくなったのじゃ」
那津は、目の前で向き合って立っている七瀬を笑顔で見上げる。
那津の長い黒髪がさらさら風に揺れる。
月の光を映した濡れ羽色の瞳。
七瀬が那津の笑顔を見るのは二回目だった。
那津は恐ろしい目にあったせいか、最初に言い合いをした時の那津とは少し違って物腰が落ち着いて来ていた。あれはほんの数日前の出来事だったのだが。
「那津」
七瀬は真顔で那津の目の前でいきなりひざまずき、那津の左手を取った。
「どうしたのじゃ?‥‥‥ま、まさかまた怒る気なのか? もう謝ったではないかっ」
むくれてあからさまにうんざりした顔をした。
那津は七瀬に手を取られ、そっぽを向きながら、七瀬はすぐ怒るだの厳しいだの勝手だのと、ぶつぶつ言い始めた。
「那津、こちらを見なさい」
七瀬は落ち着いた声で言った。
那津はしぶしぶ七瀬の顔を見た。
目と目が合った。
疎ましい気持ちを隠そうともしない那津を見つめながら、七瀬は言った。
「那津‥‥‥聞け。‥‥‥このままずっと私の側にいてくれ。私の妻になって欲しい」
「ふぁっ?!‥‥‥なっ、なにを言うておるのじゃ!」
那津はびっくりして左手を引っ込めようとしたが、七瀬は放さなかった。
「妾は、昨日もういいと言ったではないか。七瀬は自由に想い人と添えばよいのじゃ。妾は七瀬の幸せを願っておるぞ。妾の事は気にせんで良いのじゃ。七瀬は妾を食って不老にしたが妾はもう恨んだりしておらん。もう十分助けて貰った」
那津は、姫の威厳を持って言い聞かせるように言った。
「七瀬よ。これは妾の本心じゃ」
しかし、七瀬は有無を言わせぬ真剣な目を返してきた。
「では、私の幸せを願っているのならば、私の願いを叶えよ!」
那津は、この思いもよらない展開にどう対処すれば良いのか戸惑いながらも頭を巡らせる。
「お‥おう‥‥。七瀬の願いとは何なのじゃ?‥‥‥叶えよといわれてものう。この霊界で妾に出来ることがあるとは思えぬ。助けられた恩は忘れはせぬつもりじゃが‥‥‥」
掴まれた手をぶんぶん振ってみたが、七瀬は放さない。
「めんどくさいやつよのう‥‥‥」
那津はうんざりして、横を向いて小声でつぶやいた。
七瀬は、そんなぞんざいな態度の那津にも動じない。
「那津にしか出来ぬのだ!」
「そ、そうなのか? あいわかった。で、何をすれば妾の手を放してくれるのかのう?」
那津は足をもじもじと動かし、きょときょとそわそわし始めた。背中がむずむずする。これはもう一刻も早く終わって欲しい。
「では、私の妻となると言え。それだけでよい」
七瀬の金色の目が真っ直ぐ那津を見ていた。




