《内幕》 仙人の霊薬
私は七瀬。三途の川に住まう黄金の鯉一族の若年の男だ。
先日、那津という人間の女子 と、出会うべくして出会った。
ある日、私は現世への使いの帰りにその辺りで一番水が清い井戸で一休みしていた。
面倒な霊界から一人放たれたこの時間は、私のひとときの貴重な憩いの時だ。
人間どもは私を見つけるとこの美しさに引かれ集まってくる。
まあ、それも仕方あるまい。それほど私の一族は美しいのだから。
大抵の者は私の姿を見て有り難がるだけで終わるのだが、中には危害を加えようと企む者もいる。
これはいつの時代も変わらぬこと。
──美しき者への憧憬は、時として攻撃的な意思表示となり得る
しかしながら私が休んでいた井戸では、かつてそのような危険に会うことは一度も無く、心得た人間が住まう民度高き場所と、私には認識されていた。
しかし、その日は違っていた。
井戸の上から、自分はここの城の姫、那津だと大声で呼び掛けて来る騒がしき娘がいたが、私には関係のないことだった。
──ただ黙って私の姿を見ていれば良いものを。‥‥‥まあよい。放っておけば。
やがて、にわかに上空の井戸の周りが騒がしくなって来たかと思うと、突然避ける間も無くして、何かが私の背中を打ち付けて来た。
──まさかこの清水で黄金の鯉に無礼を働く輩 がいるとは!
不覚を取った私は不意なる衝撃に動転し目がくらんでしまった。
だが、それも刹那の事で、体勢は即座に立て直した。
私を襲ってきた不届き者が隅で騒いたので、まるっと一飲みにして即座に三途の川に戻った。
──まったく。私の憩いの時が台無しだ。
忌々しい不届き者の顔を吐き出して見ておかねばならないが、万が一、私が下界で不覚を取ったなどと誰かに知れるのは、なるべくは避けたい。
さすれば、そうそう誰も来ないであろう、賽の河原の上流に近き岸まで行ってから吐き出してみた。
するとそれは、井戸の上で那津と名乗っていたあの姫だと判明した。
なぜこのような高貴な生まれの娘が私を襲ったのか? 哀れこの様子ではもうすぐ息絶えるだろう。
今後の危険予見の参考のために、私を狙った理由を知っておかねばならぬ。
私はなぜこの姫が私を害したのか確かめるため、姫の頭頂にある百会のツボから私の気を少しだけ送り込み、思念を探ってみることにした。
姫の百会に人差し指を当て、目を瞑り神経を研ぎ澄ます。
──これが私の運命を変えたのだ!
私は今まで心の内に、このような輝きに溢れた心を持つ者を知らなかった。
心は未だ無垢。そして天真爛漫なキラキラ眩しいほどの好奇心を抱えている。崇高なる姫としての気構え。そして上に立つものとしての寛大と包容と度量。
恐いもの知らずな勇ましき行動力は先ほどの無謀で承知。
無自覚に周囲へ温もりを与える愛情。周囲から愛されて育ったゆえの悪意の無さ。
この小さな姫の思念は心地良く、そして私の心を高揚させる。
私のいた井戸に飛び込んで来たのは、姉上を励ますため黄金の鯉の鱗を欲していたようだ。
あのような下界のたわいのない言い伝えを信じて。
この姫の何か大事なものと、私の鱗との物々交換を申し込もうと試みた所、不幸にも私を攻撃したものと見なされて丸飲みされたのだ。
私はその愛らしい蒼白な顔を見た。
──もう、このままでは助かるまい。さぞかし心も姿も美しい姫に成長したであろうに。なんと惜しいことよ‥‥‥
欲しい。この娘。そうだ、諦めるには早い。
私はこの小さな姫を手に入れるのだ。
方法は‥‥‥ある。
このまま死んでしまえば浄土へ行き、そのうち転生してしまう。
なれば、私の霊力を使い肉体を回復させれば蘇生して現世に戻ってしまう。
私の下に留めるためには‥‥‥
真に死んでしまう前に急がねばならなかった。
私はその弱りきった体から、姫の美しい魂を取り出して、私の左の鰭袋で眠らせておいた。
肉体から出て、数日戻らなければ死人の魂になる。
まだ浅い息の残る那津の体を死なせぬために、私の霊力を注意深く少しだけ注いだ。そして右の鰭袋に入れ、背中の痛みを感じながらも、ここより更に上の源流近くまで泳いで、薬効最仙人のもとに向かった。
この仙人は様々な霊薬を調合することが出来る優れた薬師だが、算盤尽くな老人だ。だが、提示の報酬さえ仕払えば、ほとんどの期待には応えてくれる。そして口は固く信用も置ける。
まあ、この霊界において黄金の鯉族の怒りを買えば、どうなるかは想像がつくだろうから、私たち一族なら悪いようにはされない。
私は薬効最に、私の霊力玉30個という破格の高額報酬を支払い、人間の体に効く不老薬を手に入れた。
薬効最仙人は、これを飲ませれば、大人はそこで老化は止まり、子どもなら15~18位まで成長した後はそのままになるはずだと言った。以前にも生きた人間7人ほどに処方したことがあるという。
改良を重ね、回を重ねるごとに効き目は上がって来ていて、今回はほぼ完璧な出来ばえだと言った。
但し、それは普通に生きている人間に対しての処方で、魂の抜けた体に対する処方は初らしい。なので完全なる保証は出来ぬという条件付きだ。
‥‥‥仕方がない。この姫を手に入れるためにはこれに賭けるしかないのだ。
うまいこと不老になっても、やはり怪我や病気に対しては普通の人と同様であり、いつかは死ぬ運命ではある。
私がこの霊薬を求めたことを固く口止めするため、更に私の鱗1枚を渡しておいた。
黄金の鯉の鱗は長寿の霊薬の原料にもなるし、昼間に蓄光し夜光る灯りにもなるから重宝する、と仙人は喜んだ。
これで私がここに来たことも、不老の霊薬を求めたことも誰にも知られることは無い。
私の背中は仙人の湯治と霊薬軟膏で幾許も無く回復した。すばらしい効き目だ。
私は仙人の川岸にある湯治用のあばら家をひと月借りた。
この小さな姫の体はかろうじて生きているだけのため、回復するまで私の霊力を注ぎ続けなければならない。薬を与えるのはそれからだ。
那津の体が癒えるのを待ちながらここで過ごした。
もうじきここに来てからひと月経つかという頃になると、那津の体は十分回復した。肉体は壮健を取り戻し、体にも傷1つ、出物腫れ物も無いはずだ。
この薄暗き小屋にて黒い布団の上に横たわる那津の体。
それを眺めながら私は、自然と笑みがこぼれるのを自覚している。
ようやく私の望みが叶う時が来たのだ!
──薬効最仙人の霊薬を使う時が来た。
これを使えば那津は霊界に留まるしかないし、その上、美しい姿のままでいられる。
那津は私がいなかったら今頃は成仏し、はや転生していたかもしれない。
しかしこの体がある限り那津は成仏出来ず、ずっと霊界にいるしかなくなる。
生まれた時に那津に与えられた入れ物は、まだ生きているのだから。
私は霊薬の小瓶を開ける。
何とも言い難いきつい刺激ある臭いがする、
その、どろりとした黒き霊薬を小指に付け毒見してみた。かなりえぐい味だが、少なくとも毒薬では無い事は確認出来た。
私は成功を祈りつつ、すべてを自分の口に含む。
布団に横たわる那津の首を左手で少し上げた。そしてわずかに開いた那津の唇の隙間に、ゆっくりと慎重に流し込んだ。
‥‥‥これで本当に変化が起こるのだろうか?




