霊獣大猿×三
「ふう、すいぶん走った。ここまで来ればそうそう追って来れまい」
那津は辺りを見回した。川岸から離れるに従って霧がうっすらと立ち込め、遠くは良く見えなくなっている。
振り返って見ても靄 に阻まれ、元の場所の方向さえ不明になってしまった。
──不思議な世界じゃ。どこまでも続いて果てが無いようにさえ思える。この地に端はあるのか? どうして誰にも会わないのじゃ。妾はどちらに行けば良いのやら‥‥‥
目を凝らすと、霧の向こうに一本の木の影が小さく見えた。
「取り敢えずあの木まで行ってみるかの」
目標が出来ると幾分不安も和らいだ。
地面はごろごろ石から土に変わっている。何も考えず、てけてけと目標に向かって足を動かした。
‥‥‥行けども行けどもたどり着かない。こんなに歩いたのは生まれて初めてだ。
足が痛む。履いていた草履もボロボロだ。
かなり歩いてから気がついた。
あの木はとんでもない巨木らしいということに。なかなかたどり着けないわけだ。
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──なんと! 我が城と同じくらい高く、なんと見事な樹じゃ‥‥‥
那津は側まで来て畏怖を覚えた。
やっとのことで巨大樹の根元までたどり着くと、両足を投げ出し、張り出した根っこのこぶにもたれてぺたんと座り込んだ。
見上げると那津の頭上には、葉の繁った極太の枝が幾重にも四方に広がっている。
──なんと荘厳な樹じゃ。いつから生えておるのだろう? 霊界には希有 なものがあるものよ‥‥‥
遠くの空は白々と闇を溶かし、徐々に夜が明けようとしていた。
少し休むと落ち着いて来て、今までのことを思い返す余裕が出来た。
自らの無鉄砲で七瀬に食われ、すぐには成仏出来ぬ霊となった。その後は七瀬にうまく頼み込み、現世に戻って自らの失敗の後始末をした。
そのまま現世にとどまり、皆の暮らしを見ながら過ごそうと思っていた。七瀬に預けた不老の体は自分では使いようも無いし、くれてやったも同然だと見なしていた。
──今思うと、七瀬をうまく誘導したつもりだったが、妾は七瀬の手のひらで転がされていただけじゃった。
七瀬は冷徹に見えるが、真から冷たい男では無いように思えた。
──あのひねくれた気性ゆえ、哀れみと不老を与えた責任から、妾を保護するために黙ったまま婚約印をつけたのじゃろう。でなければ政略に意味をなさぬ婚約をするなど普通では考えられぬ。
七瀬の下 を飛び出して来たものの、このような寂れた世界で妾はこれからどうやってどこで過ごせば良いのかもわからん。
ここは七瀬の下に戻って、妾に同情は不要だと伝えねばなるまい。意味も成さず、同情から七瀬の側室にされるなど御免じゃ。
「よし、そうと決まれば戻るのじゃ!」
那津が決心し、立ち上がったその時、頭上の樹の茂みのどこかが、ガサリと大きな音を立てた。
枝が揺れ葉擦れの大きな音と枝がミシミシ軋 む音が、あちこちから聞こえて来た。
──何じゃっ?
那津は、きょときょと上を見回したが、もう悪き予感しかしない。
緑色の葉が、パラパラと降って来た。
そう、最初の日に成瀬から、危険ゆえ結界から出ぬように教えられていた。
七瀬のいきなりの婚約話に耐えられずに夢中で飛び出してしまった那津だったが、これは後悔先に立たずだと咄嗟に悟った。
ザザッザザッ‥‥ドシン‥‥‥ザザザッ、ザザザッ‥‥‥ドシン、ドシン!
大きな葉擦れの音と共に、黒き異様な大きな何かが三つ、地面に降り立った。
辺りに土煙がなびいた。
樹を背にした左右と正面に、枝から飛び降り那津の行く手を塞いだのは、那津のような小娘など容易く踏み潰す大きさと重量であろう、毛むくじゃらの黒き大猿3匹だった。
「こんな所に一人で来るとは迷子かい? お嬢ちゃん」
左端の大猿が、低くざらついたダミ声で喋った。
「‥‥‥なんじゃ、この大猿どもは‥‥‥!」
真っ黒のふさふさした毛に覆われた体。毛の無い頬の、まるで化粧を施したかのような赤黄青の派手な線が不気味さを加味させている。その体は見るからに筋肉質で、片足だけで那津の体くらいありそうだ。その手のひらは分厚く、太く長い指がついている。
「‥‥‥妾に何か用かっ?」
那津は恐ろしさをこらえ、大きな声で怒鳴った。
さすがに声が震える。
左右一匹づつと目の前には特大の猿が一匹。那津の背は巨大な樹で塞がれている。
猿が数歩前に出れば、那津に手が届く距離だ。
「お嬢ちゃんよ、我らに従え。お前は今から我々の世話をして働くのだ。それが嫌ならこの場でお前を食らう。人間の魂など腹の足しにもならんが」
「何をいきなり申す! なぜ妾が猿の世話係など! 妾は生き物係ではないわ!」
那津は持って生まれし姫の威厳をもって言い返す。
「何? ただの人間の魂ふぜいが霊獣を馬鹿にするのか? この霊界において身の程知らずで嗤えるわ」
「‥‥‥兄じゃ、どうします?」
「ふっ、少し痛め付けても我らに従わないのなら、いつものように売り飛ばすなり、食うなりすればよい」
左右に避けた口からは大きな牙が覗いている。
那津は樹の幹の後側にささっと回って隠れようとしたが、途中、根の隆起したこぶにぶち当たって転んだ。
「うううっ‥‥‥これきしのこと!」
それでも痛みを堪 えて気丈に立ち上がった。
囲まれる方角がずれただけで、さっきと何も変わらなかった。
──妾はここで本当に終わるのか? 屈辱に耐えてこいつらの世話係となるか?
那津は、井戸で黄金の鯉に飲み込まれた一瞬の出来事など比べ物にならぬ恐怖をびりびりと感じていた。
にわかに樹の上方が、バサバサッと音をたてた。樹の上にまだもう一匹仲間がいるのかも知れない。
このままここで幹の回りぐるぐるしたとて、いずれ捕らえられてしまうのは必至だった。
那津は一か八か、大猿の隙間を突破しようと試みた。
しかし大猿は、歩幅も手足の長さも那津とは段違い過ぎる。
兄じゃと呼ばれていた一番大きな猿に長い腕で容易く捕まり、髪を鷲掴みにされ、大猿の目の高さまでひょいと持ち上げられた。
「ちっこいの、観念したほうがいいぞ~」
那津はじたばた脚を暴れさせたがどうにもならない。
「うっっ‥‥‥放せ! 無礼者めっ!」
「こんなに可愛らしのにずいぶんと威勢がいいじゃないか。がっはっは!」
髪を掴んだまま、自分の目の前で那津の体をぶらぶらさせた。
那津に為す術は無い。
「俺たちのために働くか? それとも‥‥‥」
「くぅっ、否 っ!!」
無駄だと知りながらも目の前の猿を睨みつけた。
「妾は清瀬川家の那津姫じゃ! 我は落花生 城と領民の泰平 のためにあり! たとえ無に帰すともこのような荒くれた悪党のためには決して働かぬ!」
那津は幼き時からの教えを魂消滅の危機においても貫いた。
「仕方ない。売ってもたいした金にもなるまい。このまま食っちまおう。俺が頂くぜ? 兄弟」
「‥‥‥構わねぇが。兄貴‥‥‥さっきからかすかに臭わ‥‥‥」
まだ、一言も喋っていなかった右端の大猿が、憚 りながらもごもご言いかけた。
特大大猿は構わず那津を上に持ち上げ、見事な犬歯の牙と真っ赤な粘膜をさらし、大口を開けた。
「くぅー、またもや万事休すじゃっ! 今度こそ妾は全くの無に帰するのかっ!」
大猿の口から、もわっと放たれた生臭い臭気が那津を襲う。
「うっ‥‥げほげほっ‥‥‥‥‥七瀬‥‥‥たす‥‥け‥‥‥」
那津はそのまま力が抜け、気を失った。




