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婚約の印

 三の井戸の横で、月明かりに照らされた七瀬が立っていた。

 

 七瀬の体全体がぼうっとした光に包まれているように見えた。長い黒髪が心地よい夜風にさらさら揺れている。

 

「待っていたぞ。那津。遅いではないか!」

 

 眉間にシワを寄せて七瀬が言った。

 

「何か用かのう? こんなものでいちいち呼び出されてはたまらんわ。今からこ手の甲の鱗を がし、蓮津に贈ろうと思うていたところじゃ」

 

 那津も負けずに眉間にシワを寄せて言い返した。

 

「‥‥‥それはもう取れぬ」

 

 七瀬が素知らぬ顔で横を向いて言った。

 

 驚いた那津は七瀬の着物を両手で掴んで揺すった。

 

「なんと! 妾はこれを蓮津に授けようと思うておったのに! なぜ取れぬのじゃ?」

 

「それは私がお前に霊力で張り付けたもの。那津が勝手に がすことは不可能」

 


 思いもよらぬ返答だった。まさか取れぬとは。


 ならば那津は、七瀬の着物にすがったまま顔を見上げて懇願した。

 

 

「なら、もう一枚妾に下さらんか。礼は後で何とかすると約束するのじゃ」

 

「‥‥‥考えておく。では、私たちは賽の河原に戻るぞ。那津の用は済んだのだろう?」

 

「何? 妾はずっとここにいるのじゃ。何を言うておる。それに妾は七瀬に渡す賽の河原までの駄賃も持ち合わせてないのじゃ。まあ、無いこともないがこれは妾の分じゃからな」

 

 那津は、たもとに入れた南京豆あられを後ろに隠した。

 

「それは要らぬ。駄賃もな」

 

 七瀬は左腕をすばやく那津に回すと鰭袋に入れ、井戸に飛び込んだ。

 

 

 

《いきなり何をするのじゃ!》 

 

《そこで大人しくしていろ。向こうに着いたら話がある》 

 

 

 ************ 


 

 

《那津着いたぞ。出てこい》

 

《なんなのじゃ一体! 妾は城にいると申してたであろう! せっかく皆の元に戻れたというに》

 

 プンプンして那津が鰭袋から出て来た。

 

 着いた場所は、最初に那津の意識が戻ったあの賽の河原だった。

 

 


 成瀬がそこにいた。

 

 

「おお、待っておったぞ。我に何の用だ? お前から私を呼び出すなど、ここの所、珍しいことが続くものよ」

 

「父上、急にお呼び立てして申し訳ありません。重要な報告がありまして」

 

「那津はもう戻って来たのか? お前が現世に連れて行ったばかりではなかったのか」

 

 成瀬が、七瀬の隣に立つ那津を見て言った。

 

「はい。心配ですのですぐに連れ帰ったのです。実は、那津を現世に送る前に我らは」

 

 七瀬は那津の左手を取り、成瀬に見せた。

 

「なんと! お前たちはいつの間にそのような仲になったのだ!」

 

 成瀬は驚きの表情で七瀬と那津を見比べた。

 

 

「はて?‥‥‥何を言う。妾と七瀬の特別な仲はそなたとて知っているはず」

 

 当たり前のように那津が答えた。

 

「そ、そうだったか?」

 

 成瀬は思い返したが心当たりは無い。

 

「ほら、那津もこう言っているのです。問題はありません。父上」

 

 七瀬は成瀬に跪いた。

 

「‥‥そうか。私が鈍かったようだな。お前たちががよいなら私はかまわぬ。那津は賢く、きも もすわっている。それにあの不老の体も、霊力を与えればあと数年で美しい姫になろう。お前はなかなか見る目がある」

 

 感心したように頷いた。

 

「私もそう思います。父上」

 

「では、私は早速母の流美りゅうびに報告しておこう」

 

「はい。母上様にもごきげんよろしくお伝え下さい」

 

 成瀬は、これはめでたいと独り言を言いながら、いそいそと戻って行った。

 

 

 

 成瀬が水際で消えるのを見届けてから、那津は自分の左手の甲をまじまじと見た。

 

「一体、成瀬とそなたは何を言っておったのじゃ? 妾がお前に飲み込まれたことなど、お前の母上様に何か関係あるのかのう? まあ、親ならあると言えばあるのか?」

 

 那津は人差し指を唇にあて、首をかしげる。

 

 

「もちろんあるのだ。私と那津は婚約したのだから」

 

 七瀬が表情も変えず、さらりと言った。

 

 

 那津は今の言葉が飲み込めない。

 

「?」

 

「那津と私は婚約したのだ。私たちはいずれ夫婦になるのだ」 

 

 

「なぬっ?!‥‥‥な、な、な、なにを言っているのじゃ! いつそのようなことになったのじゃ! 妾はそんなことは知らぬ!」

 

 那津はとんでもなくびっくりして、ばばばばっと10歩あまり後ろに下がった。

 

 七瀬は表情も変えず淡々と答える。

 

「那津は私の霊力のこもった鱗を受け取り、左手の甲につけたではないか」

 

「それがどうしたのじゃ。妾が無くさぬようにと七瀬がつけたのであろう」

 

「那津はうれしそうに受け取ったではないか。それで婚約は成立したのだ」


 

 当然の如くの言い様だった。

 

 

「‥‥妾は知らぬ! 七瀬よ、お前は確かおおよそ100才なのだろう? 妾は13じゃ。いくらなんでもそんなじいさんと妾が婚約なぞするわけ無かろう!」

 

 七瀬は眉間を押さえながら、何かに耐えるように言った。

 

「那津。私はじいさんなどではない! 我らの寿命はゆうに1000年。従って私は今、人間換算では二十歳そこそこと言えよう」

 

 

 那津としては、こんな婚約は認められない。それに七瀬の目的も全くもって不明だ。不気味過ぎる。

 

 

「確かに現世でも政略のため、幼き頃より婚約することもよくあること。しかし妾とお前の家系には何も関係ないではないか!」

 

「そのようなことは関係あるわけないだろう。ここは霊界なのだから。私は那津がいいのだ」

 

「妾がいいじゃと? では、何のために妾と縁を結びたいのじゃ? 家と家が結ばれぬなら婚姻など何の意味も成さぬではないか!」

 

 

 那津の知る婚姻は政略のための婚姻のみだった。他の理由での婚姻などはあり得ない。

 それが当たり前で、那津もそれに従うのは姫として当然のことだと認識している。 

 

 

「ここは霊界だ。お前の持つ現世の常識や倫理は当てはまらない。婚礼は3年後だ。私はそれまで待つ」

 

「‥‥‥妾が来たばかりの霊界の婚姻の常識など知るわけがなかろう! 勝手に婚約なぞされても‥‥妾は死霊なのだぞ。七瀬は死霊と結婚する気なのか?」

 

「那津は死霊だが、生きた体は私が管理している。霊界でならお前が一時的に元の体に戻ることなど、私の霊力を与えればわけはない。さすれば我々の子も成せる。何も問題はない」

 

「‥‥‥なぜじゃ? なぜ妾と? ‥‥‥勝手に決めるでない!」

 

 

 那津はくるりと向きを変え、駆け出した。

 

 

 ──川岸からうんと離れれば追って来れまい。

 

 

「待て! 那津! ここから離れてはならん! そちらは我ら一族の結界の外! 戻るのだ!」


  

 七瀬の叫びが聞こえたが、那津はかまわず走り続けた。

 

 身が隠れるすすきの群生に入り、そのまま駆け抜けた。

 細長い葉の際が、幾重にも肌を薄く切りつけるのも構わず。

 

 

 月明かりが辺りを明るく照らしている。夜明けまではまだ少し間がありそうだった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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