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現世の城へ

《おい、那津聞こえるか?》

 

 

 七瀬の声が、この暗き不思議な空間に響く。ここは暖かい。

 

 ふわふわと心地よく空を漂う感覚。回りは暗くて見えないが、恐怖は感じなかった。

 


 ──母上の腹の中はこんな所かも知れぬな‥‥‥


 

《聞こえておるぞ。七瀬。お前の鰭袋ひれぶくろとやらの中は居心地がよい。霊界の生き物は不思議な物をもっておるのう》

 

《我らはこれがあるから此岸しがん彼岸ひがん の使いが出来る。では、少し休んでから夜が開けぬ内に那津を現世に運んでやろう。やはり暗い方が動き易いだろう》

 

《おお、すまぬのう。かわりに妾の体を使って楽しむがよい》

 

《‥‥‥だから、その誤解を招く言い方はやめてくれ。それに那津の体に入らずとも、私は陸より水中が得手えてというだけで、那津の思っているほど陸に弱い訳ではない》

 

《‥‥ちとよいかの? 確認じゃ。妾の不老の体は普通の体とどのように違うのじゃ。今日、井戸で負った筈の傷さえ無くなっておるようじゃが?》

 

《‥‥‥今日負った傷。実は私が那津を飲み込んでから、もうずいぶん日にちも過ぎている。那津は気を失ったままであったからな。それよりも、もっと肝心かんじん なことがある》

 

《肝心とな?》 

 

《この私が右の鰭袋に入れた那津の不老の体。那津の場合このまま年頃になるまで成長するであろう。それまでは老化ではないからな》

 

《なんと! ほお‥‥‥では妾が大人になった姿が見られるのか? それは楽しみじゃ』

 

 

 那津は、ずっとこの13の姿のままだでいるものだと思っていた。

 

 自分がこの先どんな姿に成長するのか見られるとは思いもしなかった。

 

 

《‥‥‥‥‥では、しばし休むが良い。そこでは欲しいものは大抵の物は念じれば出る。自分で好みの寝床を作れ》

 


 ──念じれば出るとな? これぞ、七瀬の霊力のなせる技なのか?  

 

 

 那津は目を瞑り、城で過ごしていた自分の部屋を想像してみた。

 


 

 恐る恐る目を開けると、今や懐かしささえ感じる自分の部屋に立っていた。

 

 障子戸を開けると、あの元の鰭袋の暗い空間が広がっていたので、見なかったことにしてスッと閉めた。

 

 

 ──ありがたい。どうにか落ち着いて眠れそうじゃ。

 

 

 

 那津が布団に潜り込むと、間もなく微睡まどろ みが訪れた。

 

 

 

 

 

 

《起きろ! 那津》

 

 

 ──うるさいのう‥‥‥妾は‥‥まだ眠いのじゃ‥‥‥幽霊になっても基本変わらんの‥‥‥身も心もこんなに疲れるとは‥‥‥体は軽うなったが‥‥‥むにゃむにゃ‥‥‥

 

 

《おい、現世に行きたいと言ったのは那津だろう。さっさと起きろ》 

 

 七瀬の冷ややかな声が、那津の耳に響いて来る。

 

 

 ──ううん‥‥‥厳しいのう。七瀬は。

 

《はいはい。わかったのじゃ》

 

 那津は布団から顔を出して呟いた。

 

 

 腰元たちがいないので自分で身仕度しなければならない。彼女らを思い浮かべれば現れるかもと思ったが、それは無理なようだった。

 

 一人鏡に向かってみる。長い黒髪をすくのも楽ではない。

 

 

 ──そう言えば、腹も空かぬ。御不浄も不要じゃ。

 

 

《で、いつ現世に出発するのじゃ?》

 

《もう着いている。今、あの因縁の井戸の中だ》

 

《いつの間に! かたじけないの。ではまたいつか会おうぞ。七瀬》 ( ´∀`)/~~

 

 

 那津は、取り敢えずはこのまま現世で城の行方を見守って過ごそうと密かに計画していた。 


 

《ばかもの! またいつかではない! 私に体を預けておいて、何を言っているのだ!》

 

《お前に体を預けた、とな‥‥‥お前こそ誤解を招く言い方はやめるのじゃ》

 ( ・A・)σ

 

《‥‥‥‥‥。いいか、その左手の鱗に熱を感じたらここに戻って来い。私の呼び出しだ。夢枕に一度立つくらいならよいが、むやみに生きている人間に干渉しないように。那津では制御が出来ぬであろう。彼らの精気を奪ってしまうことになる。過ぎれば死なせてしまう》

 

《ほお‥‥‥それで妾の霊力が作れるとみたぞ。ふっふっふ‥‥‥》

 

《‥‥‥悪事を働けば地獄行きだぞ? お前は人だからな。那津》

 

《妾は自分で霊力を貯めて当分成仏せぬから関係無いのじゃ。皆からほんの少しずつ貰えばいいのじゃろう? ではさらばじゃ。七瀬!》

 

 

 

 那津は七瀬の胸鰭の裏からするりと抜け出た。そのままふわりと井戸の縁まで上がって行った。

 

《おお、戻って来たのじゃ! もう、あれから何ヵ月も経ってしまったような気さえするのじゃ》

 

 空を見た。もうすぐ夜明けが来そうな気配だ

 

 

 ──妾が食われてからどれくらい経っているのか? 妾はしばらく気を失っていたらしいからのう‥‥‥ちと、一回りして、城中の様子を見るとしようぞ‥‥‥

 

 

 那津は空に浮くことも出来る事が井戸を出る時に知れていたが、とことこ歩いた。

 

 なぜか既に懐かしくさえ思えるかつて知った落花生おかき 城。

 

 

 ──そういえば、妾は幽霊ならば壁抜けなど出来るのかのう? ふっふっふ。

 

 

 那津は裏口の木の扉にそのまま突っ込んだ。

 

 

 ゴンッ!

 

 

 大きな音が静寂しじま に響いた。

 

 

 那津は思いきり尻もちをついた。

 

 

 ──ううっ‥‥‥なんと! 出来ぬとは! これでは幽霊の特典が無いではないか!

 

 思っていたのと違うのじゃ‥‥‥

 

 

 那津が立ち上がり、お尻を払っていると、ぎしぎし ぱたぱたと中から足音が漏れ聞こえて来た。

 

 

「‥‥‥気がついた? さっきこの辺から、大きな音したね?」

 

「おう、おいらも聞いたから気になって。なんだろな? 野良犬でも来たんじゃねえか? 扉を開けてみるか‥‥‥」

 

 那津の目の前で、がらりと引き戸が開いた。

 

 

《おお、そちらすまぬのう》

 

 

 那津には見覚えは無いが、城の下働きの者だ。

 

「犬もいねえな。きっともうどっかに行っちまったんだ」

 

 三十路みそじ くらいの男と女は、辺りを見回したが、目の前の那津には目もくれない。

 

 

「そうみたいだね。全く人騒がせな犬だね。‥‥‥那津姫様がいなくなられてもうひと月経つけど、どうにもあっちもこっちも落ち着かないね」

 

「‥‥‥そうだな。あの無鉄砲だが皆が期待を寄せていた姫様がいきなりいなくなっちまったんだ。この城の悲しみは当分癒えねぇよ」

 

「‥‥‥あの日は大変な騒ぎだったねぇ‥‥‥。あの姫様のことだから、どこかからひょっこり現れるなんてことはないのかね。みんな、心のどこかでそう期待してるよ」

 

「ああ、そうだったらどんなにか。お体ごと消えちまったんだ。本当に亡くなられたのかも真には確かめられねぇときたらそうも思いたくもなるさ‥‥‥諦め切れねぇだろうな。さあ、おしゃべりは終わりだ。どうせすぐに夜明けだろ。ついでに仕事始めるか」

 

「そうだね。早いけど、もう着替えて来ようかね」 

 

 

 那津は二人の隙間からするりと中に入った。

 

 まだほの暗い廊下を歩きながら考えた。

 

 

 ──妾が食われてからもうひと月も経っていたのか! これはいかん! 妾のお供をしていた菊乃や橋本らはどうなったのじゃ? まずは‥‥‥妾の部屋に行ってみるか。

 

 廊下を歩いていると、とつぜん横の部屋の障子戸が開いた。

 

「誰なのですっ? このような時刻にどすどすとはしたなく廊下を通るとは!」

 

 鬼のような形相の寝間着姿の中年の女性にょしょう が現れた。

 

 

 那津は立ち止まった。

 

 

《おう、すまぬ‥‥‥。妾の歩き方がはしたなかったとは今まで気づかなかったのう》

 

 

「あら、誰もいない‥‥でも‥‥‥待って! 今の足音はまるで‥‥‥!」

 

 

 青ざめた顔で前後左右をきょときょと落ち着き無く見回した。

 

 

 ──これはいかん。そうじゃ、妾は井戸の中から浮き上がって出たではないか。浮けるのじゃ。ふわふわ浮きながら進めばよい。これぞ幽霊の特典じゃ。ふっふっふ‥‥‥

 

 妾の部屋はどうなっておるのかのう?

 

 

 

 那津はそおっと自分の部屋の障子を開けた。

 

 

 部屋の中は生前のままだった。何一つ変わっているものは無く、焼き菓子も普段通りに用意されていた。隣の部屋には寝床まで用意されている。

 

 ──おう、菓子じゃ! 七瀬も喜ぶかの? あ、次はいつ会うかわからぬな。ならば全部妾のものじゃ。

 

 

 那津は下受けの油紙ごと、あられをがさごさと包んで着物のたもとに入れた。

 

 

 ──さて、父上と母上を見に行って、蓮津と菊乃たちの様子を確かめねば。


 

 那津は引き続きふわふわと移動した。

 

 

 那津の父と母はまだ床で眠っていた。幾分やつれた寝顔だった。

 

 那津はそっと頬に触れる。

 

 

 涙が出そうになったので早々に切り上げた。

 

 こんなところで泣くために七瀬を必死で言いくるめ、戻って来たわけではない。

 

 

 ──次は菊乃の部屋じゃ。

 

 菊乃の部屋は片付けられて何もなくなっていた。

 

 

《なんと!》 

 

 

 那津は不安を押し殺してひとまず蓮津の部屋へ向かった。

 

 

 

 そっと部屋の障子を開けた。

 

 

《蓮津! 妾じゃ、那津じゃ!》

 

 

 蓮津もまだ床の中だった。

 

 美しい蓮津の顔が透けるように白く見えた。頬に涙の跡が見える。そしてなぜか枕元に、松ぼっくりがたくさん並べられている。

 


 ──これは。

 

 蓮津。まだ持っておったのか‥‥‥

 

 

 

 那津は物心ついた頃より、城の松から落ちる松ぼっくりを集めるのが好きだった。形のよいきれいな松ぼっくりを拾っては、自分の宝物にしていた。

 

 だから、大好きな蓮津が那津と遊んでくれるたびにその中から一つづつ渡していた。


  

『蓮津、妾の宝物を受け取るのじゃ』

 

『まあ、わたくしに那津様の宝物を‥‥‥』 

 

 

 今思うと、つまらぬものを渡していたと思うが、蓮津はその度に嬉しそうに受け取ってくれていた。

 

 

 

 ──済まぬのう‥‥‥。皆に悲しい思いをさせてしもうて‥‥‥

 

 

 那津は蓮津の頭を優しくなでてから、そっと部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

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