おやすみ愛しい人。どうか良い夢を
「おはよう、愛しい人。目は覚めたかい?」
眩しい日差しが、リディアに降り注ぐ。
重い瞼をゆっくりと開けてリディアは目覚めた。
まず見えたものは天井と一人の男性の姿。朝日の光が降り注ぐ中、男性と目が合った。
穏やかな鳶色の瞳はリディアと目が合うと嬉しそうに笑った。
「調子が良さそうだね。声は出る?」
言われた言葉を頭の中で反芻する。
声が出るかと聞かれた。
そう言われて声を出してみようとすると、思ったようにすぐには出せなかった。
「んっ…………うん。何とか」
自分の声だというのにまるで初めて聞いたような感覚がリディアにはあった。
随分長い間声を発していなかったように喉元はつっかえ少しばかり咳が出るものの、どうにか声は出る。
「良かった。やっと声が出るようになったね。随分と長引いてた風邪だけどまだ具合は悪い? リディアの好きなシチューを作ったよ。食べられるかな」
男性はリディアの額に手を当てて熱を確認する。されるがままに男の様子を眺めていたリディアだったが、シチューという単語から食欲が刺激されたのかお腹から音が鳴る。
どうやら目の前の彼にも聞こえていたようで小さく笑われた。
「ふふ……食べられそうだね。待ってて、温めて持ってくるから」
男は優しくリディアの頬を撫でると隣室に向かった。
一人残されたリディアは恥ずかしさから僅かに頬を赤らめながらぼんやりと男性の背中を追っていた。
そもそもここは何処だろう?
リディアの頭はぼんやりとしていて記憶があやふやだった。
周りを見渡せば小さな部屋にいることが分かる。
部屋にはリディアが横になっていた寝台と椅子が一つ。
あとは小さなテーブルが置いてあるものの、そこには数冊の本しか並んでいない。
見覚えがあるような、ないような。
そんな不思議な気持ちに駆られている。
暫くして男性が戻ってくる。
手には湯気のたったシチューがある。
「はい。火傷しないようにね」
「ありがとう……」
名前を呼ぼうとして止まった。
彼は誰だろう。
まさか、こんなにもリディアを看病してくれている男性の名前も分からないなんて。
聞くに聞けず受け取ったシチューを見つめながら必死で名前を思い出そうとしていたら、彼の方から答えを導き出してくれた。
「僕の名前が分からないんじゃないかな? リディア」
まさか言い当てられると思わなくてリディアは思わず大きく頷いた。
「ごめんなさい……こんなにも良くして下さるのに」
「大丈夫だよ。まずは君に今の状況を説明しないといけないね」
そうして男は話し出した。
男の名前はアベル。
彼はリディアの恋人で、今は二人で暮らしているらしい。
元々一緒に暮らしていた街があったが治安が悪くなったため二人で隠れるようにこの小屋で暮らしていた。
アベルがこの小さな小屋で仕事をしており、リディアは彼の手伝いをしながら暮らしていたらしい。
「先週ぐらいに君が重い風邪に罹ったんだ。医者の話によると記憶障害を起こすことがあるから、たとえ体力が回復したとしても安静にするようにって言われている」
「記憶……障害?」
「うん。昨日も君が目が覚めた時、やっぱり僕の名前を思い出せなくて困っていたよ」
昨日の話をされても全く記憶がない。
リディアは思い出そうとするものの何一つ思い出せなかった。
自身の顔も髪型も始めは思い出せなかった。
アベルに姿見を見せてもらってようやく思い出す。
黒色の髪に緑の瞳。
ああ、私だ。
見ることでようやく思い出す。
そんな風に記憶を思い出していることから確かに今の自分はまだ病気だと分かった。
「治る……かな」
不安になる。
目覚めた時のぼんやりとした感覚。
もし、また眠りから目覚めた時、同じように何もかも忘れてしまっているのではないか。
そんな不安から怯えていたリディアを優しい温もりが包み込む。
アベルに抱き締められていた。
「大丈夫。医者も少しずつ回復していくって言っていた。今は君の回復だけに専念しよう。何を忘れたって僕がいる。君の事は全て知っているよ。だから僕に任せて安心して元気になって」
「アベル……」
抱き締めてくるアベルの温もりをリディアは懐かしみと思った。
この温もりを知っている、と。
ああ、確かにアベルはリディアの恋人なのだ。
ようやくリディアはそのことを思い出した。
朝食にシチューを食べ終えてからリディアは着替えようと思ったが、記憶がないため着替えが何処にあるのか分からない。
するとタイミングを見計らったようにアベルが衣服を持ってきてくれた。
「記憶が無いと不便だわ……服の一つも着替えられないなんて」
恋人とはいえ下着まで用意されてしまった恥かしさでどうにかなりそうなリディアをアベルは笑う。
「病人なんだから大人しく看病されろってことだよ」
「でも」
「元気になったら君とやりたいことが沢山あるんだ。覚えている? 一緒に海を見ようって約束したこと」
アベルとリディアは大陸の山間地生まれのため一度も海を見た事がなかった。
二人でいつか海を見に行きたいと約束していたことがあった。
「そうだった……かも」
「あとは、君の看病で遅れに遅れている仕事なんだけど。君が回復したら沢山手伝って貰うからね」
「勿論よ。何でも手伝うわ」
体力の落ちた身体で勢いよく返事をすれば、アベルが苦笑する。
それから見つめ合い、アベルの唇が近づきリディアの唇に触れる。
柔らかくて優しい口付けだった。
何処かリディアは、懐かしく愛おしいと感じた。
うたた寝をしていて目覚めると夕方だった。
目覚めて横を向いてみれば、アベルがこちらを見つめていた。
「…………起きた?」
「私、寝てたのね……」
「うん。まだ回復していないんだよ」
いつの間に眠っていたのだろうか。
朝は回復したと思っていた身体だったのに、今は気怠さが残っている。
けれど朝のようにぼんやりとした目覚めでは無いことに安堵した。
あの、記憶が曖昧な状態は怖い。
何もかも忘れてしまったままに目覚めた朝。
恋人であるアベルの存在すらも思い出せない自分にリディアは戻りたくなかった。
「…………私、眠るのが怖い」
「リディア」
「ねえ、アベル。私、また貴方を忘れてしまうのかしら」
少しずつ取り戻していく記憶。
愛しい人との思い出と温もり。
どうしてその全てを忘れてしまっていたのだろう。
こんなにもリディアはアベルを愛しているのに。
「アベル……私、もう眠りたくない。ずっと起きていたい」
「…………リディア」
不安を打ち消すようにアベルはリディアを抱き締める。
「昨日の私も貴方を忘れていたと言っていたけれど」
「うん」
「今の私と同じことを言っていたのかしら」
「そうだね……眠るのが怖いと言っていたよ」
「……アベル」
リディアは恐ろしかった。
夕暮れの太陽が沈み夜が訪れる。
月の光だけが世界を包み込む孤独な世界と共にリディアも闇に吸い込まれそうな気がするのだ。
それこそ、何度となく訪れた恐怖だ。
そう、リディアには覚えがある。
アベルの唇の温もりを覚えているように。
夜の訪れと共に自身を襲う恐怖もまた覚えていた。
「アベル、アベル……! 私、夜が怖いの」
「リディア」
「どうしてかしら。何が怖いか分からないけれど、でも……怖い」
身体が震えて思い通りに動かない。ただ、必死にアベルにしがみついた。
このまま引き離されたら、もう永遠にアベルと会えないという…不安がリディアを襲うのだ。
「…………大丈夫だよ、リディア。夜は必ず明ける。また朝が訪れる。そうしたら僕は必ず君の前に立ち、君に挨拶をするよ。今朝を覚えている?」
「…………ええ」
目覚めて一番に見たものはアベルの笑顔。
『おはよう、愛しい人。目は覚めたかい?』
そう言って、リディアを起こしてくれた。
「忘れないでリディア。君がどれだけ眠ろうと、どれだけ記憶を失おうと僕が君を起こしてみせるし、絶対に思い出させてみせる。全てを忘れて目覚めても、君は必ず僕を思い出してくれるんだ。君は覚えているんだよ。僕が君を絶対に取り戻すことを」
「アベル……」
「リディア。僕のことを愛してる?」
愛しているかと問われたら。
「ええ、愛しているわ」
リディアは即答した。
今なら分かる。
リディアは本当にアベルを愛していた。
誰よりも、自身よりもアベルが愛しかった。
アベルは悲しそうに笑みを浮かべながらリディアの額に口付けた。
「僕も愛している。だから忘れないで……君を愛している人がいるということを。君無しでは生きていくことすら出来ない僕という存在を」
夜になった。
リディアの身体は鉛のように重く、とにかく睡魔が襲ってくる。
ああ、駄目だというのに。
このまま目を閉じてはいけないと、分かっているのに。
「アベル…………」
睡魔に襲われる中、リディアは弱った力のままアベルに向けて手を差し伸べた。
言葉を紡ぐ力も失ってきた。
このまま眠りについてしまう。
そうしたらきっと、全てを忘れてしまうのだ。
差し伸べた手をアベルが強く握り締め、己の頬に愛おしそうに当てる。
その瞳の眦は涙が浮かんでいる。
「おやすみ愛しい人。どうか良い夢を……」
アベルの言葉に懐かしさを感じた。
眠る前の挨拶。
それは、リディアがいつもアベルに言っていた言葉だったと思い出した。
最期に彼にその言葉を伝えたのはいつだっただろうか。
昨日? 一昨日?
いや、違う。
少しずつ蘇っていく記憶。
―ああ。
リディアは全てを思い出した。
けれどもう遅い。
「アベ……ル…………」
伝えたいことは沢山あるのに。
聞きたいことも沢山あるのに。
リディアには声を発する力もなく。
またアベルを置いて。
リディアは静かに永遠の眠りについた。
まただ。
また、失敗だ。
体温を失ったリディアを前にしながらアベルは何度目か分からない絶望を感じていた。
命の灯火を失ってしまったリディアを寝台から抱き上げ、いつもの場所へと彼女を移動させる。
この小さな小屋には地下がある。
地下に入ると途端に世界は凍りついた冷たい空間に変わった。
リディアの遺体を腐らせないためには、この氷の世界に彼女を眠らせないといけない。
「ごめんねリディア……またすぐに起こしてあげるよ」
体温を失った恋人の肌は、辺りの冷気によって氷のように冷たくなっている。
たったさっきまで温かく、優しい声でアベルの名を呼んでいたリディアはもういない。
死んでしまったのだ。
愛するリディアを初めて失った日から二年は経っていた。
もう二年なのか、まだ二年なのか。
愚かにもアベルはまだ生きている。
リディアという愛する人のいない世界で、無様にもまだ生きながらえているのだ。
いっそ死ねたら楽だった。
リディアを失った直後、アベルはすぐに後を追うと決めた。
彼女が眠る寝台の隣にあった引き出しからペーパーナイフを取り出し、首元に刺そうと思っていたのだ。
けれど、そこにはペーパーナイフと共に手紙が置いてあった。
リディアからの手紙だ。
元より余命は長くないと医師から宣告されていたこと。
いくら治療のためとはいえ魔術や錬金術に詳しいアベルであっても治せないだろう。
希望は捨ててはいないけれど、もしもの場合を考えて手紙を書いたというリディアの手紙には、「どうか自ら命を途絶えることだけはしないで」と何度となく綴られていた。
『自ら命を落とせば、魂が巡らず二度と貴方に会えない。私はもう一度貴方と会いたい。だからそれまで私の事は忘れて、どうか幸せに生きて』
リディアは信仰深い女性だった。
神の教えの中で、自死する者は二度と現世に還れないという言葉がある。
神より与えられた命を全うすれば、魂はまた天を巡り、同じ魂となって現世に戻ってくるのだと信じられている。
だからリディアはアベルに自死することだけは止めてと願ったのだ。
それはアベルにとって残酷な願いだった。
愛する人との約束は守りたい。
けれどこの先あと何十年もの間、リディアのいない生を全うするなど気が狂ってしまう。
実のところもう狂っていたのだ。
余命間もないと言われたリディアの命を伸ばすために書物を漁り、誰もが禁忌として手を出さない領域にまで手を出したことをリディアは気づいていなかった。
魂を失ったリディアの遺体を優しく抱き締めながら、その果てしなく絶望しかない余生をどう生きていくべきか。
残されたアベルは、リディアと共に生きていくという選択肢しか残されていなかった。
冷たい部屋の中にある寝台にリディアを寝かせた後、アベルは冷え切った部屋の中でいつもの準備に取り掛かる。
口から溢れる息は白い。準備をする指先も寒さから赤くなる。
何度となく繰り返した儀式は本を読まずともやり方を覚えている。
長く唱える呪文すら暗記してしまった。
自らをナイフで傷つける行為も繰り返してきたせいで、傷跡が歪に残っている。
アベルが行っている儀式は禁術だ。
魔術や錬金術を扱う者が、手を出してはならない領域。
他人に自らの命を与える術を知った時は歓喜した。
これでリディアを救えるのだと、アベルは泣いて喜んだ。
自分の命が彼女の糧になる。
これ以上嬉しいことはない。
しかしアベルが術を完成させる前にリディアは命を失ってしまったのだ。
あと少しで間に合ったのに。
アベルは絶望した。書かれていた書物には、命が途切れかけた者へ与える術だったのだ。
死んでしまっては命を与えることが出来ない。
けれど絶望した最中に思いついた。
もし、命を失った者にこの術をかけたら蘇るのではないか、と。
結果、半分成功で半分失敗だった。
リディアは生き返った。
けれどその時間は短く、一日にも満たずにまた死んでしまう。
それでも構わなかった。
ほんの少しの時間でも彼女が生き返る。
アベルは神に感謝した。
彼女を返してくれてありがとう。
絶望しかない未来に希望を与えてくれたことを感謝します。
彼女がたった一日蘇るのに、己の命が一体どれほど使われているのか分からなくても。
アベルは何度も何度も術を施した。
あるいは本来の目的の通り、リディアに命を与えることができるのではないか。
一日ではなく何日も何年も。
それこそ、二人の命が尽きるその時まで一緒にいられるのではないか。
そんな……妄執に取り憑かれて二年経った。
何度試してもリディアが蘇る期間は一日だけ。
それでもアベルは構わなかった。
たった一日でも。
リディアと共にいられるのならば。
自らを傷つけて血液を流し儀式の準備をしながら、アベルは意識が朦朧とする感覚に包まれる。
最近、こうして意識が薄れる時間が増えてきた。
初めは血を抜きすぎたせいかとも思ったがそうではない。
食欲も減って体力も落ちてきた。
何度となく続けてきた儀式の成功に、以前よりも時間が掛かることをアベルは気付いていた。
理由は分かっている。
アベルの寿命が足りないのだ。
他人の命を分け与える行為で蘇るリディア。
そのリディアが蘇ることに時間を要するということは、与える側の命が残り少ないのだ。
アベルは笑う。
「やっと終わりが見えてきた」
自ら命を絶ってはならないと言っていたリディア。
果たして今の行為は自死と呼べるものなのか。
アベルは違うと思っている。
これは、自身が生き長らえるための手段なのだから。
「リディア。リディア」
眠る恋人の冷たい頬を優しく撫でる。
己の血がつかないよう注意を払いながら。
「もう少しで君に会える。ああ、早く君に会いたい」
一日だけではなく、ずっとずっと。
もう何十回と味わった別れの絶望はアベルを狂わせるには十分だった。
気が狂おうとも彼女への愛だけは変わらない。
ついに膝に力が入らずアベルはリディアの寝台に寄り掛かる。
待ち望んでいた死期が近づいているのだろうか。
「随分……長生きする予定だったんだなぁ……」
視界が時々霞み薄暗くなる。
だったら少しでも近くでリディアを見ていたい。
アベルはリディアの顔元に近づいて彼女の瞳を眺めていた。
思い出すリディアとの日々。
「愛する人」
そう呼んでいたのはアベルではなくリディアだった。
アベルは彼女にまた「愛する人」と呼ばれたかった。
もし、このまま命途絶えることになれば氷のように冷たい部屋の冷気も途絶え、やがて二人の骸は朽ちるだろう。
アベルは静かに目を閉じた。
ぼんやりとした空気が己を包み込んでいる。
『おやすみ愛しい人。どうか良い夢を』
思い出すのは、いつもおまじないのように伝えてくれるリディアの言葉。
アベルの好きな言葉。
アベルの愛するリディアの声。
「…………アベル?」
随分はっきりとリディアの声が聞こえた。
アベルは驚いて薄らいでいた視界を凝らしてリディアを見た。
閉じていた筈の瞳が開いている。
まさか。
いつもなら儀式を終えた後、朝日と共に目を覚ましていた。
この冷たい寝台の上で目覚めたことなど一度もない。
「リディ……」
声がうまく出ない。
果てしない闇が足元から差し掛かってくる気配。
「アベ……ル…………っ……」
リディアの声が聞こえない。
リディアの顔が見えない。
ずっと会いたいと思っていた恋人の姿をもう、アベルは視界に映すことさえ出来なかった。
彼女の声が聞こえた気がした。
彼女の瞳と目が合った気がした。
けれど、それが確かなのかも分からない。
これは夢だろうか。
深い闇に包み込まれる中で、アベルは彼女の言葉を思い出す。
『おやすみ愛しい人。どうか良い夢を』
もし、今アベルの側にリディアがいるのなら。
どうかそう、言葉を送ってほしい。
そうすればようやく。
アベルは心安らぐ夢を手に入れられるのだから。