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横断歩道にて

「あ、筆箱忘れた。みんな先に行ってて!」

もう学校から大分進んでしまったから二人と一緒に戻るのは申し訳ない。五月七日の放課後、橘薫(たちばなかおる)は友人の津田(つだ)あかねと鍋島優花(なべしまゆうか)にそう声を掛けるや否や学校へ(きびす)を返した。今日はこの後お茶飲み喫茶で中間試験の勉強をみんなでする。といっても提案者の鍋島が勉強を教えて欲しいだけのようだったが、人に教えて理解が深まる事もあるだろう。急ぎ足で校門を通る。通学の時は校庭の中央を突っ切って校舎まで行けば良いが、部活動が始まっている放課後はそうはいかない。球技系の部員が練習前、校庭の端に並べた防球ネットがある所を通るのだ。幸い教室の鍵はまだかかっておらず、数人のクラスメイトが中でお喋りしたり、タロット占いのようなものに興じている。

「いやー、筆箱忘れちゃって。教室まだ()いてて助かったわ。職員室まで鍵取りに行くの面倒くさいからさ、じゃあまた明日!」

同級生の返事も聞かず、机の中のペンケースを取るとさっさと出て行った。ここまでくるともはや独り言である。

 しっとりとした産毛のような桜の花びらはとうに散り、校庭の木々は緑の葉で自身を着飾っていた。ついさっき来た道をまた上る。普通は疲れて薫の母咲百合(さゆり)のように愚痴の一つでも吐きたくなるが、薫は違う。上りも下りも関係なくさっさか歩いて行く。それが自宅マンション近くの階段で足腰が鍛えられているからか、それとも橘の生まれつきの性格から来るのか定かではない。横断歩道が見えて来た。ここを渡り左に曲がって進めばお茶飲み喫茶があるのだが、歩行者用信号が既に点滅している。これだったら先に曲がって喫茶店前の横断歩道を使った方が良い。後先考えるのが得意ではない橘だが、さすがにまた自身を事故の危険にさらすわけにもいかないので、赤信号で横断したりはしない。高校生になって数回ここに皆で来たが、行きであっちのを渡るのはこれが初めてだ。

「うわ、こっちも赤信号か」

残念そうに(つぶや)く。喫茶店の窓越しに二人がうっすらと見える。遠目なのではっきりとは分からないが、鍋島が何かを食べているようだ。ちゃんと勉強しているのだろうか。橘に一抹の不安がよぎる。両(かかと)を上下させながら信号が青になるのを待つ。空の吐息が橘の髪をサラサラと(なび)かせ、どこからともなくタンポポの綿毛が飛んで来た。

「青っ」

左肩に掛けた鞄の持ち手を両手で持ち、小走りで喫茶店へ向かう。そして横断歩道を渡り終えようとした瞬間、妙な感覚に襲われた。それは止まっているエスカレーターに乗った時に感じる、足下の不確かさのようなものであった。下を見たが地面に問題がある訳でもない。(ちょっと(つまず)いただけか)そう思って前を見た。


 何もない。


いや、あるにはある。喫茶店があるはずの所に空き地がある。後ろを向くと横断歩道はある、だが信号機はない。あるのかないのか分からない。もう一度前をちゃんと見てみる。やはり空き地だ。真ん中に売地の看板が立っている。

「どうかしたの?」

右の方から低い声が聞こえた。目をやると木製のガーデンベンチに西ヶ浜高校の制服を着た、色白で瓜実顔(うりざねがお)の男が座っている。

「喫茶店が無いの!」

「うん、無いよ」

彼の言っている事は全くもって正しい。どうしたものかと、橘はエサを待つ鯉のように口をパクパクさせる。

「えーっと何て言うか、今まであったけどなくなってしまったというか……」

「潰れたの?」

「いや、そうじゃなくて……横断歩道を渡る前まであったけど渡り終えたらない。中に居た友達も居ない、みたいな」

「なんじゃそら」

橘自身もおかしな事を言っているのは分かっているけど、本当なのだからしょうがない。しばらくの沈黙の後、男が口を開いた。

「つまり君が横断歩道を渡ってる間に喫茶店のあった場所が売地になって、しかも友達も居なくなってるって事?」

「そ、そうなの、どうしよ。あと私橘薫って言うの。くさかんむりに重いみたいな字。薫で良いよ」

「薫ちゃんか。俺は灯春(ともはる)。灯るに季節の春。西ヶ浜高校だよね?一年生?あ、とりあえずここ座る?」

ポンポンとベンチの左側を手で叩く。

「うんそうそう。灯春君も一年生?」

そう言って橘は空いてる方に腰掛けた。灯春の質問になんとか受け答えは出来ているが、平常心はさっきのタンポポの綿毛と共に何処かへ飛んで行ってしまっている。

「うん」

灯春が答えた。

「じゃあ私達同級生か。それより喫茶店とみんなはどこ〜!あとこの横断歩道についてた信号も無いの、わけ分かんないよ〜!」

「ここに信号あったら車的(くるまてき)に不便だろ。向こうにも信号あるのに」

「私もそれは思ってた。凄いモヤモヤしてたの……って今はそれどころじゃないのよ!」

「ごめんごめん。でも喫茶店は本当に知らない。一応近くにないか見てみたら?」

「そうする」

橘は立ち上がり、空き地がある通りの建物を(せわ)しなく見て回る。といっても実際はうろたえながら灯春の周りを行ったり来たりしただけだ。そして力なくベンチに再び腰を掛けた。

「ダメだ、やっぱりお茶のみ喫茶ないわ」

「なんだその喫茶店。馬から落馬するみたいな名前だな。あっ猫が居るよ、向こうの方。こっち来ないかな」

「あかねがそれと似たような事言ってたわ。つうか私猫どころじゃないんですけどぉ!あかねも優花も心配よ〜。どこ行っちゃったの……」

さすがの橘も狼狽(ろうばい)して、今にも涙が溢れてきそうである。

「あ、そう言えば薫ちゃんがいきなり横断歩道の前に居たからビックリしたんだよ」

「えっ、何それ早く言ってよバカ!そろそろ私泣くわよ!」

「ああっごめんごめん」

灯春は担任の山藤とは違う意味でつかみ所が無い。暖簾に腕押しする感覚。十のエネルギーで投げても向こうからは二くらいしか返って来ない事に、彼女は腹が立った。

「とりあえず戻りたいならまた横断歩道を渡れば良いんじゃないかな。ダメだったらまた考えよう」

「分かった。今は試せる事を試すわ」

正直そんな方法で何とかなるとは思わないが、やらないよりはマシだ。横断歩道の前に立つ。今は信号機が無いので車が来ていないか確認する。

(結構びゅんびゅん車が通って危ないな)

なんとなくそんな事を考えた。

「よし今だ」

歩き始めた刹那、足がぐにゃっとする。さっきの感じと同じだ。今度は前を向き続け、何が起きるのか見届ける橘。一瞬寄り目をした時みたいに景色がダブって見え、何度か焦点が合ったり合わなくなったりするのを繰り返し、あの見慣れた店が目の前に現れた。

「うおっ」

お茶飲み喫茶の前でよろめく。今渡り始めた所に戻ってくるのは実に奇妙だ。

「凄い!灯春君、ちゃんと戻って来た!」

振り返る。しかし、そこにはただ車が通り過ぎるだけの光景が広がっていた。

「……そりゃそうか、ちょっと残念。あっ、ちゃんと喫茶店確認しないと!」

急いで扉をあけ中に入る。

「喫茶店がある!みんなも……居るっ!」

「相変わらず薫は面白いね〜」

鍋島がミルクレープを頬張っている。なぜこの人はカロリーの高いものばかり食べるのだろうか。

「頭でも打ったんじゃない?」

「いやっ、そうではなくて。ちょっと色々話したい事が。つうか優花もうなんか食べてるし」

まだ橘の頭は混乱しているが、ちゃんと元の世界に戻って来れたという安心感が勝っている。

「今日誕生日なんですって。だからケーキは私からのおごりよ。何か飲む?」

マダムが答えた。

「へえ、ハッピー優花バースデー。あっじゃあウーロン茶で」

「ありがと〜」

橘がソファーに座った。津田は橘の様子が気になるようで、試験範囲のノートを確認してはいるものの、ペン回しをしていて集中力を欠いている。鍋島はフォークでミルクレープの層を分断しながら幸せそうに食べていた。マダムがウーロン茶を運んで来たので、お礼を言って口をつける。飲んだら少し落ち着いたのか、ふうっと息を吐き背もたれに寄りかかった。

「で、色々話したい事って何?」

ここが聞き時と判断して津田が質問する。

「あっそうそう……」

かくかくしかじか今までの奇怪な出来事を二人に説明した。

「え〜何それ、超怖いんですけど〜」

「戻って来られたのが何よりね。正直なかなか信じられないけど」

「体験した私が一番信じられないわよ」

恐らく三人は、今日中間試験の勉強の為に集まった事をすっかり忘れているだろう。それくらい橘の話は、嘘か本当かは置いておいて衝撃的だった。

「その灯春って男がこの学校に居るか居ないかがまず重要ね。薫はソイツの顔覚えてる?」

「イケメンだった?」

「まあ見れば分かると思うけど。イケメン……俗にいう塩顔ってやつ?」

鍋島がにまにま笑っている。浮いた話とは無縁そうな橘に一瞬の(ほころ)びが生まれたのを見逃さない。

「その荒唐無稽な状況で顔を覚えているだけでも上出来よ。明日確認してみましょう。あと帰りにそこの横断歩道でもう一回起きるか試してみようじゃないの。その方がすっきりするでしょ」

「あかねありがとう。でも、あれ試すの?怖いなぁ……」

「ハッキリさせた方が良いと思うわよ。戻って来る方法はあった訳だし」

「……まあ、確かに。じゃあ頑張る」

橘はそう言うと(おもむろ)に帰り支度を始め、鍋島もそれに追随する。

「アンタ達何帰ろうとしてんの。優花はケーキ食べただけで薫は話しただけじゃない。試験勉強の()の字もしてないわよ」

「……あ、は、はいそうですね……おっしゃる通りです」

「あかね先生スパルタ〜」

再度二人が席に着く。

「きっと高一の最初の中間試験なんて範囲も広くないし一番点数とりやすいわよ。英単語とか歴史単語を頭に入れとくだけでも違うでしょ、たいして頭使わなくても出来るし。ある程度考えてやらなきゃいけないのは一人でやるのが一番集中出来て良いけど、分からない所はこういう場所で聞くとかね。効率的にやりたいわ」

矢のような橘と直感の鍋島が顔を見合わせた。二人とも津田の論理的思考についていけないらしい。

「なんかあかね凄いわ。将来世界征服とかしそう」

「じゃあその時は薫は人、もとい私が支配した世界を助ける事になるのね」

「ふふっ、あかねちんの冗談ブラックで好き。クセになってきた」

津田の発言もあって、三人は灰色猫がご飯の催促をしに来るまできちんと勉学に励んだ。


「今頃ジョバンニは夕ご飯食べてるのかなぁ」

横断歩道の前で喫茶店の二階を見ながら鍋島が言った。辺りはすっかり暗くなっている。

「そうね。でも今はこっちの実験の方が大事よ」

「おーい!あかね、優花ー!今から渡るよー!」

向こう側で橘が叫んでいる。二人は手で大きく丸を作った。鍋島に至っては膝を曲げ、足でも丸を作っている。肩をすくめながら恐る恐る横断歩道を渡り始める橘。普段は威勢のいい彼女がこんな風になるのは珍しい。首を左右にゆっくり振り、異常が無いか常に確認している。日が沈むと暗いし足下も見えにくいし昼間より怖い。一番の問題は渡りきる瞬間だ。よろけた場合を考えて二人が手を前に伸ばして橘を迎える体勢を整えている。えいと勇気を振り絞り大きな一歩で渡りきった。

「うお〜怖かった〜。でも何も起きなかったわ〜」

「薫ナイスファイト〜!」

「これでここの横断歩道を渡った時に、()()()()どっかにすっ飛ばされる訳ではないという事が証明されたわね」

「その直ちに影響は無いみたいな言い方すっごい不穏(ふおん)なんですけど……何?次は起きるかも知れないって事?」

せっかく恐怖に打ち勝ったというのに、これでは報われない。そんな橘の不満がにじみ出ていた。決して津田が悪い訳ではないが。

「気持ちは分かるけど、こればかりは仕方が無いわ。情報が少なすぎる」

「ごめん、そうだよね……お腹すいた!なんか食べたい!」

緊張の糸がプツリと切れ、自分が空腹である事に気づいたのだろう。

「あかね先生、シチリアラーメンのお店を紹介して下さいまし」

「……太麺と細麺どっちにすんの?」

皆お腹が空いていたらしい。とりあえず夕飯を外で食べる旨の連絡を各々済ませた。これをしないと家で料理を作る親が怒る。

「今日誕生日の優花が決めて良いよ」

「じゃあ太麺で」

「分かったわ。じゃあついていらっしゃい」

津田がそう言うと三人は坂を下り、海岸沿いの飲食街へ消えていった。


 翌日の朝、橘と鍋島は一年生の教室を巡回していた。といってもドアについている窓から中を覗いているだけである。この日は雨が降っており、校舎内は生徒達の体温と水分を吸収した空気でむっとしていた。

「どう?イケメン居る?」

「いや、趣旨変わってるから。灯春君探してるのに。でもここにも居ないわ」

話すたびにガラス窓が吐息で曇る。そして肝心の発案者の津田は居ない。彼女は昨晩「朝早く起きるのは不毛だし不可能だから、すぐ確かめたいなら二人でやってちょうだい」という言葉を残して帰っていったのだ。結局どのクラスにも灯春の姿は見えず、各クラスの人にも聞いてもみたが、名前に心当たりのある人間は居なかった。それをいつも通り遅刻ギリギリで登校した津田を含めて話し合い、中間試験も近いから何か無い限り保留にしよう、という事で最終的に落ち着いた。今日もお茶飲み喫茶で勉強するかについては橘は乗り気ではなかったものの、あそこは居心地も良いし、たった一回の奇妙な出来事で通うのをやめるのも寂しかったので、横断歩道を鍋島が一緒に渡ってくれるのを条件に行く事にした。

「あかねっちも一緒に渡ってくれれば良いのに〜」

「私は嫌よ。それに三人のうち一人は外野から見る人間が必要だと思うわ。何も起きないのが一番良いけどね」

例の横断歩道の一個手前の横断歩道で話をしている。パラパラと雨粒が傘の上を滑る。

「じゃあ私は先に渡ってるから。無事に向こうで会いましょう」

水たまりを巧妙に避けながらさっさと渡っていく津田。話を聞く分には問題ないけれど、自分が直接被害に遭うのはごめんなのだろう。

「あかねは慎重だからね。私達もあっちに行きましょう」

「は〜い」

喫茶店前の横断歩道。昨日はここを渡って散々な目に遭った。今日は鍋島も一緒だし津田は向こうで待ってくれている。橘にとって彼女達の存在は心強かった。

「今日も三人でご飯食べに行こうね〜」

励ましてるのか、願望をただ垂れ流してるのか正直よく分からない。でも彼女のどっしりとした安心感は頼りになる。

「私は良いけど、また太るわよ」

精一杯の余裕を見せ、横断歩道を渡り始める。鍋島が何か言っていたが橘にはもう聞こえていなかった。ただならぬ緊迫感を背負いながら進んだが、昨日の出来事が気のせいだったと思える程、あっさりと横断出来た。橘は拍子抜けしたような表情をしている。それを察して津田が、

「何も起きてないみたいね。良かったじゃない」

と言った。

「ありがとう。あっれぇ昨日のは何だったのかなー。夢?」

「私にはそんな風には見えなかったけどね。でもこれで試験勉強に集中出来そうじゃないの」

「そうそう、みんな教えてね〜」

それから三人は喫茶店でみっちり試験範囲を復習(さら)った。日が傾き、夜がどんどん顔を出し始める。しかしジョバンニが夕飯の催促に来る気配がない。彼の出現が帰りの合図になっていたので、少し心配である。

「あの、今日はジョバンニ来ませんね?」

辛抱堪らず橘がマダムにたずねた。

「あー!そうね、実は今日午前中に予防接種の為に病院につれていったの。そしたら()ねちゃってね、ずっと押し入れに立て籠ってるのよ」

「なら良かったです。ちょっと気になったんで。ジョバンニには申し訳ないけどちょっと可愛いわ」

押し入れの奥で二つの目を光らせ、不満そうにこちらを見つめるジョバンニ。確かに想像すると少し面白い。

「あらありがとう。可愛いお嬢さん達に心配してもらえるなんて良かったわね。ふふっ」

二階を見上げながら笑った。

 三人は昨日と同じく夕飯を一緒に食べる事にした。今度は細麺である。既に雨はあがり、残された水たまりが街灯の光を反射し、蜃気楼のように揺らめいていた。


「この三人で間違いないのね?」

「はい。橘、津田、鍋島で間違いありません」

物陰で声が聞こえる。

「ふむ、まあもう少し後をつけてみましょう。証拠は多い方が良いわ」

「え?俺もですか?」

「あなた、何をしたか分かってるの?学校にばらしても良いのかしら?」

「いや、それは……分かりました」


〜続く〜

読んで頂きありがとうございます。ようやく不穏な空気が漂って参りました。次回、新キャラ登場です。

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