橘薫
四月はみんな春だって言う。確かに桜も咲くし、新年度だし季節の始まりにはピッタリよ。でも私には五月くらいがちょうどいい。だって四月ってまだ寒い。冬が意地はって居座ってるのよ、絶対。子供の頃にお父さんとお母さんに連れられて、お花見に行った事あるけど鼻水が止まらなかったもん。大人達は顔を赤くして、口もお酒臭くして、大きい声だして楽しそうにしていたけどね。私には何が良いのか全然分からなかった。だから正直この時期に入学式があるのはそんなに好きじゃない。目は勝手に覚めちゃうけど。でも新品の制服からする糊の香りは少しだけ好き。あと桜の花びらが雪みたいに舞うのも綺麗。あっ雪ってやっぱりまだ冬じゃない。
自分の部屋でクラス分けの紙などを鞄に入れながら橘薫はこんな事を考えていた。澄んだ朝の光が彼女の部屋を照らす。父親の雅は出掛けにパジャマ姿の彼女に向かって、
「薫、今日から高校生だな、頑張れよ」
とだけ言って一足先に出勤して行った。きっと彼なりに精一杯応援したつもりなのだろう。普段父は口数が多い訳ではないし、言葉にそこまで気を使う方でもない。年頃の娘に何て声を掛けたら良いか分からないだけかもしれないが。でも薫はそんな飾り気の無い雅を気に入っている。さっき自分に掛けた不器用な父の言葉を思い返したら、嬉しいような可笑しいような感じがして、少しくすぐったくなった。
「薫ー!準備出来たのー?今日学校初日なんだから遅れちゃダメよー!」
さっき食べた朝食の食器を洗っている母の咲百合の声が台所から聞こえる。咲百合は薫と似ている、いや、薫が咲百合に似ていると言うのが正しい。涼しげな目元やすっと通った鼻筋もそうだが、何よりも話し方が瓜二つだ。単刀直入にまず自分の言いたいことを言う。
「私寝坊した事無いから平気ー!」
(ふふっ、今日は入学式だけだから鞄もそんなに重くなくて少し嬉しい。新しい物に囲まれるのも楽しいな。鞄につける新しいキーホルダーが欲しいかも)
そして彼女のこのささやかな願いは後日叶う事になる。
薫はあらかた仕度を整え玄関へ向かった。ブラウンのフローリングの廊下を靴下で歩くからスルスルと少し滑る。彼女は普段スリッパを履かない。足が薄いのかすぐ脱げてしまう。中学の修学旅行で、宿泊先の旅館の階段をスリッパで下っていた時片方がすっぽ抜け、先を歩いていた担任のはげ頭に直撃させた。この件が薫とスリッパが決別する決定的な理由となった。
「もー、あんたは本当にスリッパ履かないんだから!新しい靴下がすぐ汚れちゃうじゃないの!」
通学の気配を察知し、手ぬぐいで手を拭きながら咲百合がやって来た。
「すぐ脱げるから嫌なのっ。じゃあ行ってくる、多分お昼くらいには帰ってくるから」
「はいはい、事故と花粉症には気をつけてね」
「花粉症は気をつけても無理でしょ」
そう言うと薫は出て行った。たまに咲百合は冗談なのか本気なのかよく分からないことを言う。
橘一家は現在、シチリア浜新市街にある二十階建てマンションの十階に住んでいる。新市街は旧市街を取り囲む様に作られていて、近代的な高層建築物が多いが、建物の密度は旧市街の方が断然高い。そのため見晴らしが良く地価も安い新市街に住む人がここ十数年で増えている。
エレベーターで一階まで行きマンションの共同玄関を出ると、橘は左右の新緑の青臭い芝生を横目に緩やかなベージュの階段を下りる。母の咲百合は帰宅の時に上るのがしんどいと、買い物の度にぼやいている始末だ。しばらく進むと最寄り駅が見えてくる。メトロ入口のアーチはお馴染みのアール・ヌーヴォー様式で、鉄で出来た枝葉に支えられたてっぺんの黄色い看板には、黒字右書きで『駅西街市新』と書かれている。シチリア浜で最初に地下鉄が開通したのが大正時代で、どうやらそれを踏襲しているらしい。ただ踏襲しているといってもせいぜい外観くらいで、改札はNYASMOやKabochaなどの非接触型決済にも対応しているし、ホームドアも設置されている。橘がホームで待っていると地上へ押し出される生暖かい風が吹き、レトロ調の黄色い車両が到着した。他にも緑や赤いのもあるらしい。他の利用客に混じって彼女も乗車した。地下鉄車内を見渡すと、西ヶ浜高校の新一年生の姿がちらほら見受けられる。女子はキャメル色のブレザーに赤いチェックのスカート、男子はネイビーのブレザーとYシャツに濃いグレーのズボンを履いている。登校初日ということで制服を着崩している人間は居ない。橘は初々しいなぁと思いながらそれを見ていたが、自分もその一人である事にすぐ気づき、吹き出しそうになった。新高校生とは反対に付き添いの親は橘両親を含め見当たらない。というのも西ヶ浜高校の入学式に親は参列しないのだ。これは別に会場が狭くて入れない訳ではなく、共働きの家庭もあるし、出席出来ない両親も居るからである。その不公平をなくすには最初から入れなければ良いだろうという理屈らしい。ただ何も無いのはさすがに寂しいので、しばらく「祝入学」の立て看板は数ヶ月の間学校の玄関前に置いてあり、親と一緒に写真を撮りたければ撮るという方式を採用している。
シチリア浜駅から同じ制服を着た人々がわらわらと出てくる。ビュウっと冬の残り香のような風が吹くと、前の方で、
「ひゃ〜、髪セットしたのに最悪〜」
と言う声が聞こえた。見てみると、制服姿の女の子がふわふわの金髪を手鏡を見ながら直している。追い越し際に橘は(まつ毛長いなぁ)と心の中で思った。子供の頃から猪突猛進や無鉄砲、槍など、可愛いとは無縁の言葉で形容されて来た彼女は、こういう女の子を見ると少しだけ羨ましくなる。左右に木組みでとんがり屋根の家々が並ぶ洒脱な通学路を歩きながら考える、どうしたら可愛らしい子になれるのだろうと。
(例えばさっきの女の子みたいに軽く髪を巻いてみるとか。ダメだ、私は髪が太いからとれたてのワカメみたいになる。想像したら痛々しい)
ふとした時にこんな悩みが彼女の頭の中をぐるぐる巡るが、腑に落ちる答えが見つかったためしがない。そろそろ学校が近づいて来た。何組か記憶が曖昧だったので、鞄の中からクラス分けのプリントを取り出して確認する。
(えーっとC組、先生の名前は山藤和都世……って戦国大名?これで女の先生だったら笑えるわね。とりあえず教室に行って先生が来るのを待ってれば良いのか)
校庭の両脇に等間隔に植えてある桜の木と、その奥に佇むドイツ風建築物の透視図。和洋折衷という言葉をこれほど端的に表した風景も珍しい。このまま額縁の中にいれてもよさそうだ。玄関には「一年生下駄箱は向かって左、教室へは中央階段右奥の廊下を進む」と張り紙がされている。きっと何年も同じのを使っているのだろう。全体的に黄色く劣化していて、セロハンテープの跡も所々見受けられた。生徒達が持参したプリントを見ながら各々の教室へ向かう。彼らの中には教室に入る前に本当にここで合っているのかもう一度確認したり、深呼吸したりする慎重な人間も居るが橘は全く気にしない。スパンと教室の扉を開け、自分の名前が書いてある紙の貼ってある机を見つけてさっさと席に着く。それから何となく辺りを見回す。
(後ろから二番目の席、悪くないわ。本当は端っこが一番良いけどタ行だとこんなもんね。隣の席は……鍋島優花さん、まだ来てないけど)
そんなことを思っているとまた後ろの引き戸が開く音がして、橘の左席に女の子が座る。
(あ、さっきのまつ毛なが子さん。違う、鍋島さん。やっぱりまつ毛が長くて可愛い。何かいい匂いもしそう)
鼻をくんくんさせながらじっと彼女を見つめる。不穏な視線に気づいた鍋島がこっちを向く。
「あ、お、おは、おはようございます」
橘は何とかその場を取り繕おうと挨拶をしたが不自然極まりない。
「おはようございます、一年間よろしくね〜」
ニコッと笑い軽く左手をふる。チャイムが鳴った。あとはまつ毛の話題しか持ち合わせていなかった橘にとって渡りに舟である。前の扉から先生が入って来た。
「はい、皆さんおはようございます、そしてご入学おめでとうございます。今日から一年間担任を務めさせてもらう山藤和都世です、よろしく。ぱっと見欠席は居なさそうだね、良いんじゃない。入学式で座る席を案内しながらちゃんと出席は取っとくから。じゃあ早速移動しよう。出来るだけ席順のまま俺について来てね。教室の鍵は他の先生が閉めてくれるんで安心して下さい」
そう言うと前の扉を開けた。出席番号一番の藍川通からぞろぞろと山藤について行く。
この学校には地下一階に食堂、二階に講堂が存在しており、丁度中央階段の真下に地下へ通じる階段がある。この校舎が海の近くに建っている事もあって、食堂ではシーフード系のメニューが評判だ。定番だと味フライ定食や魚介カレー、女生徒にはクラムチャウダーが人気である。冬にはあら汁もメニューに加わるらしい。講堂の壁は白く、黒に近い茶色の木材が壁と天井を支えていおり、円球の照明がいくつも天井から吊るされている。きちんと並べられた黒い木製の長椅子や簡素な構造から、プロテスタントの礼拝堂と見間違えてしまいそうな雰囲気だが、残念ながらパイプオルガンは設置されていない。そしてこのちょうどいい薄暗さが生徒の眠気を誘う。
西ヶ浜高校の入学式も講堂のつくりと同様に非常に簡潔である。よく分からない人からの祝辞や校長先生の式辞くらいだ。仰々しく入退場したり、服装に気合いの入った親も居ない。校歌斉唱も無い為、メロディーや歌詞を覚えている生徒は皆無だ。せいぜいこの式で記憶に残るのは校長の口癖が「えー、」である事くらいだろう。
形式上の入学式を終え、皆教室に戻る。まだお互いを良く知らないため話し声は聞こえない。四月の少し肌寒い空気が、えも言われぬ緊張感に拍車をかける。恐らくC組の大多数が早く山藤戻って来いと思っていただろう。彼が居ないと話が始まらない。
「ごめんごめん、待った?」
と、生徒の気を知ってか知らずか彼が戻って来た。
「はい、お疲れさん。あと今日はみんなに自己紹介をしてもらって、こっちから今後の予定を少し話して終わりです。じゃあ早速自己紹介しよう。まず俺から始めるか、名前はもう言ったから……う〜ん、そうだ、俺は出席取るときいつも下の名前で呼んでます、嫌だったら言ってくれれば勿論直します。別にフレンドリーな良い先生アピールをしたい訳じゃないけどね」
ふふっと遠慮がちな笑いが起こる。
「いや、まあ一応先生だけどさ、上司ではないからさ。なんか名字で呼び捨てって偉そうだなっていうか。あ、やべっ今のは他の先生には内緒で、色々あるから……うん、そしてみんなにもこれから色々あると思います。楽しかったり悲しかったりね。それを感じて考えるのはみんな自身です。良い事も悪い事も独り占めするくらいの勢いで毎日を過ごして欲しいなと思ってます。色々磨いていって下さい。結構良い事言ったな、青春て感じ。はいじゃあ藍川通君から番号順でよろしく」
山藤に従い適宜自己紹介を始める。ここで話す内容は趣味や中学の頃の部活など、皆大体似たようなものだ。しかし話し方や緊張し具合など、単調な中にも個性がにじみ出るから面白い。聞く方も耳だけ傾ける人、ちらっと顔を見る人、親切に体ごと向けて聞いてくれる人、様々である。
「畳川十三です。中学の頃は柔道部でした。一年間よろしくお願いします」
「はい、ありがとう。じゃあ次は橘薫さん、お願いします」
椅子を思い切り引き後ろの机にぶつけた。ゴツンと音がする。
「あっごめんなさい。えっと橘薫って言います。新市街にある中学校に通ってました。子供の頃トラックに轢かれそうになった所を誰かに助けてもらったので、将来は人を助けられる仕事に就けたら良いなと思っています。一年間よろしくお願いします」
「なんかかっけー」「大人っぽい」。この辺りになるとさっきまでピンと張っていた空気も緩み、声が聞こえ始める。そして橘は自己紹介の時が少し好きだ。この話をすると大抵いい印象を持ってもらえる。
「人を助けるか、凄いな。先生が薫くらいの時はどうやって楽して生きるかしか考えてなかったな、はははっ」
「その結果が高校の先生ですか?」
「違う違う、俺だって成長するんだよ、翔太郎。勿論今も楽しいけどな」
笑い声が教室内に満ちる。この先生ならこれくらいの反応をしても咎められないと判断したのだろう。一通り生徒達が自分の事を話し終える頃にはクラスに一体感のようなものが生まれ、この先このメンバーで一年を過ごしていくんだなという実感が皆に湧き始めていた。教師山藤は所謂空気を読める人間であり、またそれを上手くコントロールする術に長けていると見える。先生という立場に傲る事なく、あくまで一人の人間として話しているのが生徒に安心感を抱かせたのだろう。
「はい、みんなお疲れさん。だいぶいい感じの空気になったところで今後の話をします。まず明日は午前十一から簡単に学校の案内をしたあと、午後に身体計測があります、学校のジャージを忘れないように。あと特に女性陣、体重をはかるからといって朝ご飯を抜いたりしないで下さい。以前それでぶっ倒れて保健室に運ばれた人が居ました。で、明後日から早速授業開始です。以上。じゃあ、さようなら、また明日。そうだ、この学校は起立、気をつけ、みたいなの無いんで適宜挨拶してくれると嬉しいです」
皆バラバラと挨拶をして支度を始めた。帰り際、橘は鍋島が駅とは逆方向に行くのを見かけたが、まだ声をかける程の仲ではないと判断して帰路についた。
〜続く〜
読んで頂きありがとうございます。二話目で喫茶店までいこうと思っていたのですが、収まりませんでした。一応橘薫が主人公の話なんで彼女の雰囲気みたいなのも書いておこうと思いました。なかなか物語が前に進まないですがもう少しご辛抱ください。次の次から少しずつ動く予定です。
ちなみに山藤先生は俳優のム○ツヨシさんをイメージしてます。