ストリートアレイ
エピソードタイトルのストリートアレイは、ロックバンドのThe Songbardsさんの曲から引用させて頂きました。
輪郭を際立たせた濃い橙と紫で出来た雲の群れは、どすんと落ちて来ないのが不思議な程に重々しく、照りつける太陽はもう沈みかけているにもかかわらず、まるで南中した直後のように燦々と強烈な輝きを放っている。凪いで自然の鏡と化した地面に残る雨の残骸は、余す事無く黄金色の小麦畑の如き光を反射していた。それらの眩い光線達を背中で受け止める橘薫の姿がそこにはあった。
走馬灯春はそこに居たが、いつものように彼女に声をかける事はせず、ただうなだれている。
「走馬灯春!また会ったね」
ポケットの中から紙切れを出した彼は、相変わらずうつむいている。
「……だって、会いに来なかったら私は死ぬってこれに書いてあったし。多分嘘だと思うけど助ける側からしたらたまったもんじゃない」
「もちろん嘘。死ぬわけない。ごめんね、これは灯春、あなたを吊り出す為の賭けだった。それに私は怒りに来たわけじゃないの。だって元はと言えば幼い私の不注意、私のせい。そんな私を助けてくれたあなたは命の恩人。感謝こそすれ、怒る気なんてこれっぽっちも無い。また話をする為に来たの」
まだ灯春の罪の意識は消えないようで、下を向きながら薫に問いかけた。
「でも二人とも助かった方が薫としては嬉しいだろ?」
「勿論そう。でもあなたの意見くらい聞く余裕はあるわ」
その発言を聞くと灯春はぬっと立ち上がり、彼女の前に来た。薫の影を受けているせいか、死期が迫っているせいか、色の白い彼の肌は覇気のない土色をしていて異質な妖気を漂わせていた。
「生きる事は、俺に向いてない。だって薫が事故の話をした時どこかで喜んでいたんだ。死ぬ理由が出来たって。それは今も変わらない。きっと俺は弱い。楽しかった記憶も嫌なものにすり替わって、訳が分からなくなる時がある。それを外に向かって表現出来る能力も、強さも、忍耐も持ってない」
完全な俯瞰の目を以て客観の境地に辿り着けば、彼の様な悩みを持つ事もないのだろうが、そこまで道のりは難儀だ。毎日の食事でさえその日で印象が変わる。昨日美味いと食ったものが今日は食いたくなくなるし、明日はまた食いたくなるかもしれない。食い物ならまだ我慢も出来るかもしれないが、心持ちはそう簡単にはいかない。どこか我慢して気を張ればそこが破け、破けた所は痛む。痛む所を縫えば形が歪になってもう元には戻らない。彼の破けやすい心も縫い痕ばかりで、もうこれ以上耐えられそうにない所まで来てしまったのかもしれない。
明るい晴れ間とは不釣り合いの、梅雨独特のむっとした風が二人の間を駆け抜け、埃や塵を含んだ粘着質な水分子が横顔に張り付く。
「……やっぱりそうか。灯春の言いたい事は分かった。ううん、分かったなんて軽口叩けない。あなたがこれからどうするかを尊重する。でも私はあなたに死んで欲しくない」
薫は客観の境地を目指す気などさらさらないようだ。ジョバンニに発破をかけられて勇気が出たのだろうが、これが春子に強いと断言される所以なのかもしれない。主体を離脱し、空からあらゆる事象を観察する為にはどこかの偉人が宣ったように、地面にいる自分と空からみる自分、二人必要だ。ただ己だけが雲の上から好きな事を好きなように言ったりやったりすればただの無責任になるし、そんな大層な行いは神か宇宙人くらいにしか許されないだろう。彼女は脚下照顧の心を以て自身の弱さや醜さ、そして灯春の死と向き合てもなお、この男に生きていて欲しいのだ。こうして自分を省み続けた末にふと地面を離れ、遮る物のない澄み切った空を飛べる日もいつか来るのではないだろうか。
「そこまで潔く言われたらなんか逆にスッキリしちゃうけど……勿論後悔が無い訳じゃない。だからここに居る。薫との約束を破るのが申し訳ないと思った。それに今まで育ててくれた両親の事も気になる。あと……まあこれは今は良いや」
灯春と共に過ごした時間が一番長いのは彼の両親だ。そう思うのも当然だろう。
「ここに出来る喫茶店、灯春のご両親が建てたお店だった。お父さんもお母さんも凄く素敵な人だね」
「あぁ、そうだったのか。なんで分かったの?」
「私のお父さんに頼んで住所を教えてもらったの。そしたらここだった。一応お線香もあげたのよ」
「何か変な感じがするな。俺まだ生きてるのに。それに息子が死んだ事故現場のすぐそばに住むなんて、なかなか酔狂な親だな。俺の両親だけどさ」
「いっぱい悩んだ結果だって。悲しい思い出でここを終わらせたくなかったって言ってたよ。今でも灯春の事愛してるって」
「……そうか。まあ息子が死んだら悲しいか、普通。あと人伝いでも愛してるって言われるのはなんか恥ずかしいな」
薫が少し見上げると彼ははにかんだが、どこか申し訳なさそうだった。
「あと私との約束。勿論あなたに生きて欲しいのは本当だった。でも灯春が助かればあの事故が無かった事になって、私自身が事故の罪悪感から逃げられるって思ったのも本当。だから、もしあなたが本当に死にたいのなら気にしなくて良い」
「……うん」
「あと私の薄っぺらな夢も白紙よ。一回全部崩して、また考える。でもこれで良かった。中途半端な私とさよなら出来きたわ。それでも人を助けたいと思えればその夢は本物」
「薫は強いよ」
熱はこもっていなかったが、はっきりとした敬意が彼の言葉の中に満ちていた。
「崩して積み重ねてっていうのは春子さんの受け売りよ。春子さんは色んな強さがあるって言ってた。だから一人一人違う強さがあっていいと思うの。私からすれば灯春だって凄く強いよ」
「んなアホな」
薫は右手の拳をドアをノックするように一度、灯春の左胸を叩いた。ボンと音がする。
「アホじゃない。自分の命を投げ打って人を助けるなんてそうそう出来ない。あなたが弱いって言っても私はそうは思わない」
「……ありがとう。少なくとも薫の将来の夢を一回打ち砕くくらいの強さはあったわけだもんな」
薫は灯春の皮肉にも動じる事無く、こう言い放った。
「それだけじゃないわ、私はこうやって生きてる。これは灯春の強さのお陰。もしかしたらあなたの強さを必要としている人がどこかに居るかもしれない」
「そう言ってもらえるのは嬉しいよ、本当にありがとう。でも……俺は自分を含めた人間という生き物をずっとどこかで嫌悪して、馬鹿にもしてる。薄汚いものが絶えず自分の中に入ってくるし、俺自身の中にも存在している。そんなんだったら居なくなった方が楽だと思っちゃうんだ」
彼は再び顔をうつむけた。
「灯春の言う通り人間て馬鹿よ。弱くて自分勝手で傲慢。嫌いになるのも分かるわ。でもどっかに人を好きな気持ちが無きゃ、嫌いって気持ちも湧かないでしょ?」
薫がいたずらっぽく灯春の顔を覗き込む。
「……それは」
言い淀む灯春。
「薄汚くても馬鹿でも良いしそれを嫌いになっても良いのよ。悪い事じゃない。それでも前に進もうってもがいたり、見栄を張りながらも誰かの役に立ちたいって思う不完全な人間が、私は好き。あなたに会えたからそう思えるようになったの」
彼は少し微笑んだ。
「……そうか。俺も薫と会って少し変わったのかもな」
「私も変わった。今もこうやって灯春と話ができて嬉しい。最初に会った時はパニックになってあんまり覚えてないけど」
「そうだね、ビックリしたよ。でも俺も楽しかったし嬉しかった。ここに来る理由も薫に会う為になってたし」
二人でクスクスと笑い合う。それから薫はあのベンチに目をやった。
「これは提案。どこかの国に『人生は自己満足の質で決まる』って言葉があるんですって。だから次に私と会うまでに嬉しい事とか楽しい事を探しておいて。生きるのって難しいし大変だけど、それだけじゃ嫌でしょ?」
灯春は少し考えてから言った。
「まあ、言いたい事はよく分かるけど……次に会うまでの『次』っていつだ?」
「あなたにとっては十一年後かしらね」
「……長いな」
彼はこの歳になるまで、人間で居るが故の苦しみを抱え続けて来た。これからの十一年が途方もないと感じるのも想像に難くない。
「きっと私なんかより灯春は人の色んな所が見えていて、これからもそれが続くのは辛いのかなって思うわ。だからもう一つ提案」
薫は笑っている。
「十一年生きてみて、それでも死にたかったら……その時は私があなたを殺してあげる。これでどう?死ぬ理由がまた出来たでしょ?」
束の間、光の向きが変わり、土色だった灯春の肌の色が生気を帯びた美しい白色に戻る。そして彼はケラケラと笑い始めた。
「ハハッ、明日助ける人間に殺されるかもしれないってのも面白いな。薫。薫はなかなかだよ」
「それで喜ぶ灯春もなかなかだよ」
「……じゃあ殺す側の薫が死ぬなんて言っちゃダメだ」
そう言うと灯春は紙を破って捨ててしまった。紙片が風に流されてチラチラ身を翻しながら飛んでいく。端から見れば彼らの会話は滑稽で道理をはずれているのかもしれない。それは至極真っ当な意見だ。しかし倫理道徳から外れた故に見つかる真実もあるに違いない。これ以上二人の心情をとやかく言うのは無粋だろう。少しの沈黙が二人を優しく包み込んだあと、灯春が口を開く。
「でも薫、過去って変えられないんじゃないのか?」
薫は灯春をじっと見据えた。
「過去は変えられないのかもしれない。でもこの過去は私にとっての過去。あなたにとっては今、そして未来よ。だがら灯春、あなた次第でいくらでも変えられる」
「……そうか、その通りだ。うん、分かったよ。薫にそこまで言われたらまだ死ねないな。その代わり十一年後、ちゃんと俺を生かすか殺すか見定めに来てくれ」
「任せなさい。じゃあそれまでこれを預かっといて」
胸を張ってそう言うと、薫は灯春の右手を掴み、彼の手のひらの中に灰猫のキーホルダーをぎゅっと押し込んだ。彼女の声はどこまでも晴れ渡っている。
「これは保険。私が居なくなったら見て。このままじゃ嫌だったの。ちゃんと灯春に言いたい事がある」
薫が何か言おうとした瞬間、灯春が彼女の口を人差し指で優しく塞いだ。
「まだ俺が薫を助ける理由をちゃんと言ってない。俺もこのままじゃ嫌だったんだ。最後くらいカッコつけさせてよ」
灯春は薫を抱きしめようとするが、薫がそれを止めた。
「もう十分あなたの気持ちは分かったわ。それに全部あいつの言いなりは何か腹が立つから、今度は私が言う」
薫は横断歩道の前まで向かった。
「灯春、あなたが好きよ。でも私の事は気にしないで彼女作って良いからね」
そう言うと薫の体は、キラキラと光りながら風に飛ばされる砂の様に空へ舞い始めた。徐々に彼女の体が形を失い、消えてゆく。灯春が急いで薫を手を引こうとするが、彼女の白い手は既にきらめく鱗粉と化しており、遂に触れる事は叶わなかった。
乾きかけた路に独り佇む灯春を斜陽が照らす。彼は薫の残したキーホルダーに目をやると、軽く口づけをした。
〜続く〜
読んで頂きありがとうございます。次で最終回です。