待ち人来たる
「人生の最後は、笑って暮らせると思っていた」
永い永い沈黙の後、老兵は吐き出した。
「そうすればいいじゃないですか。何も無理に死ぬことはないでしょう」
若いドクターは静かに、まるで独り言のように呟く。
「いいや、そうじゃない。今、この時に死ぬことに意味があるのだ」
「どんな?」
「今なら私は、戦士として死ねる。今まで戦って戦って生き抜いてきたプライドを抱いたまま、戦士として死ねる」
「病に完全に侵されてからでは遅い、と?」
「そう言うことだ。己が何ものなのか、何を成してきたのかを忘れて、ベッドの上で置物のように生きる生など、私には必要ない」
「そのプライドのために、あなたを愛する人達を悲しませるのですか?」
「いずれやってくる死なら、せめて己を保ったままの姿を、愛するもの達の記憶に残したままで逝きたい。ああ、もちろん、何もわからなくなった私を、きっと彼らは大切に生かしてくれるだろう。だが、そんな生に何の意味がある?」
老人が口調を強めると、ドクターは軽く首をかしげて言った。
「彼らには充分、意味があるかもしれませんよ?」
「だとしても、そこに息をしている生物は、もはや私ではないのだ。私の抜け殻を生かしつづけることが、一体誰のためになるというのだ?」
「抜け殻を生かしつづけることで、彼ら自身があなたの死を受け入れる準備ができるでしょう? 抜け殻のあなたの世話をするウチに、あなたが既に死んでいるということを実感して、延命措置を止める決心をする時間が取れます」
「そのために生きろ、と?」
「あなたの自己満足である『美しいままの死』によって、悲しみを与えられるのは彼らなのです。彼らだけはあなたに『死ぬな』と言う権利があります。『あなたを愛している』と言う、その一点の事実によって」
「人は、生を受けることを選べない。ならば、死くらいは選んでもいいのではないだろうか?」
そう言った老人の顔は、哀願しているようにも見える。
「いいえ、己の意思で生まれてきたのではないからこそ、己の意思で死ぬことは許されないでしょう。神様などと言う存在を引っ張り出すつもりはありませんが、己の意思で死ぬというのが人間だけである以上、それは自然ではないのですよ」
「獣は牙が抜けて、爪が折れたら喰われて死ぬしかないだろう? 歯医者に行く野生動物はいない。私の人生は戦いの人生だった。戦えなくなった私は牙の抜けた獣だよ。不自然な延命をすることこそ、自然ではないのじゃないだろうか?」
「それはおそらくそうでしょう。ですが、野生動物なら、あなたの死に対して幾ばくの感情も持たないでしょうが、あなたの家族は人間です。彼らには感情があります」
「愛する家族だからこそ、私の気持ちを汲んでくれるだろう、とは思えないかね?」
「ええ、汲んでくれるでしょう。ですが、それは本心ではありません。彼らはあなたの意識が混濁する寸前まで、あなたと語り、あなたと共にいたいのです。あなたは彼らの愛に答えるためだけにでも、生きる義務があるのですよ。あなたの美学とあなたの家族の愛。私には、どちらが重いかなんて、わかり切った事のように思えるのですがね?」
淡々と話すドクターの顔を見て、ため息と共に肩をすくめると、老人はベッドの上に改めて座りなおし、説得を再開する。
「なあ、ドクター。おそらくこれは永遠に答えの出る問題ではないだろう。あなたには、ずいぶんと世話になった。あなたの人となりも、ある程度は理解しているつもりだ。あなたが私の家族に責められる事を恐れてそんなことを言っているのでないことは、充分よくわかっている」
「……」
「しかもあなたは、あの戦場で生き残ってきたというじゃないか。私はね、それを聞いたから、あなたの治療を受ける気になったのだよ。あなたなら、戦士の気持ちがわかると思ったから。」
「……」
「だからこそ、だからこそ、わかって欲しいのだ。言ってしまえば私とて死ぬことは怖い。夜が来るたびに、ベッドの中でいつ訪れるともわからぬ死への、いや、全てがわからなくなってしまうと言うことへの恐怖に震えているのだ。はっきり言おう。私はもう、恐怖に震えながら死を待ちつづけることに耐えられないのだ!」
老兵は、血を吐くように叫んだ。
戦士として決して口にできなかった「怖い」「耐えられない」とまで口にして、彼は慈悲を乞うた。しかし、相変わらず若いドクターからの答えはない。しばらくしてがっくりと肩をおとした老兵は、今度は力のない声でささやいた。
「戦士としてだの、美しくだのは言い訳かもしれん……」
「……」
「怖いんだよ……」
己の発した言葉にぶるっと怖気を振るうと、不意に顔を上げ、老兵はまた叫びだす。
「怖くてたまらないんだっ! いずれ必ずやってくる死を、ベッドに寝たまま待ちつづける毎日はもう嫌なんだよ。今すぐにでも、この恐怖から逃れたいのだよ! 戦士として死ぬのではなく、抜け殻になってしまうのが何より怖いんだ!」
老兵は激昂していた。
「今ならっ! 今ならまだ、私の体は動く! 若いやつとだって、戦うこともできるさ。でも、もう時間の問題なんだ。いずれ私の体は動かなくなる。だから、だからっ! そうなる前に、死にたいんだよっ!」
老人の両眼からは涙があふれていた。
「死の恐怖に震える毎日は、私の戦士としてのプライドを、毎日毎日、少しずつ少しずつ、削っていくのだ。お願いだ、もう死なせてくれ」
哀願する老人の瞳を見つめながら、ドクターは答える。
「あなたの気持ちはわかります」
この言葉に、老兵は爆発した。
「わかるものかっ!あんたがどれだけ優れたドクターだとしても、これだけはわかるはずない!私が夜毎、どれだけの恐怖に怯えているかっ!」
静かに、静かに若いドクターは笑った。後ろの壁が透けて見えそうな、蒼く透明な笑顔だった。そのはかない笑顔のままで、ゆっくりと吐き出すように言葉を発する。
「私もね、あなたと同じ病なんです」
意外な言葉に、老兵は絶句したままドクターの顔を見つめる。
「私も、あの戦場で戦ってきました。戦いのない人生が、これほど退屈で苦痛だとは思いませんでした。それでもね、愛する家族と、平穏な優しい毎日を送る決心をしていたんですよ」
「……」
「その矢先に、病のコトがわかったんです……悩みましたよ。もう一度、戦場に戻ろうかとさえ思いました。そこにあなたがやってきたんです」
「な……」
「あなたが私を選んだだけじゃないんです。わたしの方も、あなたを選んだんですよ」
「そ、そんな……」
ここでふいに、若いドクターはイタズラっぽく笑った。
「ねえ、最後の勝負をしてみませんか?」
「……?」
ドクターはカバンを取り出す。いぶかしむ老兵の前でカバンを開けると、中に収まっていたのは、2本のナイフ。
「私と勝負しましょう。勝ったほうが生き残るんです」
老兵は、ドクターの顔をまじまじと見つめる。
「わざと負けるなんてだらしのない男らしくないこと、あなたならしないでしょう?そして命を賭して戦った相手の最後の願いを反故にするなんてコトもしないでしょう?」
「…………」
「勝負はどちらかが死ぬまでです。そして生き残ったほうは、あらゆる延命措置を受け入れて、家族のために生きるんです」
「しかし……」
「私の家族なら、心配ありません。このことは前から話してあります。私もね、戦って死んでゆきたいんですよ。ずっと待っていたんです」
ドクターは取り立てて悲壮な顔でもなく、淡々と話した。
老兵の瞳に、光が差してくる。
「負けたとしたら、戦って死ねる。勝ったとしても、何もわからなくなるまでの時間を、あんたとの思い出で過ごしていける……か」
「ね?死の恐怖に対抗できそうな気がしませんか?」
青空のようなすがすがしい笑顔で、ドクターは笑っていた。
老兵の顔にも、満面の笑みが浮かぶ。
「悪くないな?」
「でしょう?」
カバンの中から、一本ずつナイフを取り出すと、老兵とドクターは病院の中庭に向かって歩き出した。
胸を張り、顔を輝かせて、二人は歩いてゆく。
これから遊びに行く子供のように、何の邪気もない、希望と幸福に満ちた笑顔のまま……