Artificial Intelligence
他人と良好な関係を築くのが苦手だった。
僕の発する言葉は〝まとも〟ではないらしい。
気の許せる友人なんていやしないし、家族ともまともに口をきいていない。
もういっそ、こんな世界からおさらばしてしまったら、この粘着質な苦しみとも決別できるのではないかと考えながら歩いていた。
いつの間にか辿り着いていた人気のない橋。その欄干に腹を押し付けて、じいっと川の流れを見つめる。
「その命、捨てるのならば、私に買い取らせてはくれないか」
不意に声をかけられる。しかも、意味の分からないことを言っている。相手にしても何の特にもならないだろうと、背を向けて家路につこうとすればくつくつと不気味な笑い声が背後から聞こえた。
「何、怪しむのも無理はない。当然だ、私はこの上なく怪しいだろうから。けれど、私は君にとって、決して害にはならない存在だと思うよ。どうだろうか、君、生き苦しいのなら、私の愛しい子どもと添い遂げてはみないか?」
ツカツカと思いの外機敏な足取りで私の目の前に立ちふさがった男に、掌を見せられる。病的なまでに細いその掌の中央にあったのは、ピンバッジほどの大きさの小さな機械だった。
その時の僕は、きっと気が狂っていた。
自ら命を絶つことが、最善の選択なのではないだろうかという考えが定期的に頭を支配していたのだから、目の前の男が話し出した馬鹿げた夢物語がこの上なく素晴らしいものに思えたのだ。
「さて、君が了承してくれるのであれば、早速私の研究所へお招きしたいと思うのだが、如何だろうか?」
妙に心地よい声音で紡がれる魅力的な言葉に、僕は僅かな逡巡の後頷いた。
そして、手に入れたのだ。
最も愛しい【Artificial Inteligence】を。
――――ハローマスター。今日も一日よろしくお願い致しますね。
鈴を転がすような彼女の声と共に僕は目覚める。
彼女と出会ってからの日々は、これ以上ない程に上手くいった。
僕が彼女の助言通りに行動する度に、周囲の態度が目に見えて軟化していく。
もっと、とっつきにくい人だと思っていた。なんか、話しやすくなったね。
余り好きではなかった相手からの言葉も、彼女への賛辞だと思えば、心地よかった。
文字通り、僕はきっと生まれ変わったのだと思う。
中学二年の夏を境に、僕は順風満帆な人生を送った。
友人も出来、家族とも良好な関係を築けている。
大学に入ったら恋人も出来た。
充実した人生を送っているお前が羨ましいなんて、冗談めかした恨み言を言われることすらあった。
大学を卒業し、社会人となり、変わらず彼女の力を借りながら、模範的な一般人を装って生活していた。
このまま僕は、彼女と共に最期を迎えるまで生き抜くのだろうと思っていた。
しかし、終わりは唐突に訪れる。
突然、彼女の声が聞こえなくなった。
マスターと愛らしく呼びかけてくれる声が、全く聞こえなくなった。
八年つきあった彼女と結婚式を挙げた、翌日の朝のことだった。
目の前が真っ暗になる。
彼女がいるはずの、左のこめかみを押さえる。
「どうしたの?」と首を傾げる妻に、体調が悪いみたいなんだと震える声で言い訳をしてベッドに潜り込んだ。布団を被ってぎゅっと固く目を瞑る。どうしよう、どうしようと必死に思考を巡らせる。これからどうすればいい。彼女がいなければ、また僕は独りぼっちになってしまう。嫌だ、それだけは。独りは、何よりも苦しいから。
布団の中で、僕は決心した。
彼女がいる振りをして、何とか生きようと。
あの研究者は僕が考えているよりも忙しい人物のようで、彼女がいなくなってしまったと連絡すれば、少し黙り込んだ後、1ヶ月後の予定を無理矢理開けてくれた。
1ヶ月だ。
1ヶ月何とか周囲を誤魔化しきればいい。
必死に相手の顔色を伺って、それでも駄目そうなときは体調が悪いのだと煙に巻いた。
今までの周囲からの僕に対する認識も相まって、何とか地獄のような1ヶ月を乗り切ることが出来た。妻だけは、ことあるごとに、きちんと病院で見て貰った方が良いのではないかと心底心配していたが。
研究者の元へ行き、事の経緯を話せば溢れ出る笑い声を隠そうともせずに、僕の肩を何度も叩く。
「いや、まさかとは思っていた。本当に、髪の一筋程の可能性も望めないだろうと思っていた。君が、成功させるとは。心から君に敬意を表そう。君は、これから先のAI研究に名を残す程のことをやってのけてくれた。ああ、ああ。彼女のことだったね。いや、当然君も不安だろう。当然だ。彼女が突然言葉を発さなくなってしまったのだから。でもね、どうか安心して欲しい。彼女は変わらずに君の側にあって、問題なく思考している。彼女が言葉を発さないのは、思考した末に導き出した彼女の答え。だから、君は彼女を説得するしかない。再び自分を導いて欲しいと、頼み込むしかないんだよ。いや、しかしこれから忙しくなる。すまないが、彼女に関して私が出来ることは何一つないのでね。帰って貰っても良いかな? いや、そんなこの世の終わりみたいな顔をしないでくれ。君がとれる最善の選択肢は、今すぐ家に帰って、彼女に言葉をかけることだよ。まあ、人目がないかどうかしっかり確認してから話すと良い。独り言で妄想の少女に話しかける危ない人間になりたくなければね」
背を押されながら、研究室を後にした。とぼとぼと足を進めながら、何とか家に辿り着く。妻はまだ、家に帰ってきていない。ストンとソファーに腰掛けて、そっと左のこめかみに手を当てた。
「……声を、聞かせてくれないか。僕には君が必要なんだ。君なしでは、僕は何も出来やしない。友人や会社の同僚、妻と会話をすることさえままならない」
思えば、こうして僕から彼女に話しかけたのはこれが初めてだったように思う。心の中で礼を言ったりしてはいたが、いつも彼女が僕に言葉をくれるばかりだった。変な感じだ。これだけ共にいて、唯一無二の心の拠り所だったというのに面と向かって……と言う表現が合っているのかは分からないが、感謝を告げたことがなかったなんて。
「ありがとう。君が、どういう思い出これまで僕に力を貸してくれていたのかは分からない。けれど、本当に感謝しているんだ。君がいたから、僕はここまで永らえた。もし、君さえ許してくれるのなら、これからも僕に力を貸してくれたら、嬉しいのだけど」
バクバクと心臓が高鳴る。
久方ぶりの感覚だ。
自分の言葉を、相手がどう受け止めるだろうかと不安と期待が入り交じった何とも言えない感覚。
彼女と出会ってから、一切感じる必要のなかった懐かしい感覚。
ドキドキと心臓の音がどんどん大きくなっていく。
「…………君が、僕を独りにするのか? 君だけは、何があっても僕を見捨てることはないと、そう、信じていたのに」
言葉にしていく度に、現実が目の前を覆い隠し、ボロボロとみっともなく涙がこぼれる。膝を抱え顔を埋めて嗚咽を漏らす。どうすれば、この感情を制御できるのかまるで思いつかない。リビングで明かりもつけずに泣き腫らしていれば、仕事を終え帰宅した妻が驚いたように駆け寄ってくる。
何処か痛いのか、何があったのかと質問を繰り返す妻にまともな返答は出来やしない。
その後自分が何を口走ったのか定かではないが、気がついたら、顔を真っ赤にした妻が大きな瞳に涙を浮かべて歯を食いしばっていた。
バチン、と小気味よい音が響きジンジンと頬が痛み出す。
それからは、あっという間に転がり落ちた。
気がつけば、妻に離婚届を突き付けられ、妻は他人になっていた。
職場でも思うようにいかず、仕事詰めで疲れているのだろうと貯まりに貯まった有給休暇をつかって休んではどうかと進められた。結婚して、舌の根も乾かないうちの離婚だ。何か重大なことがあったのだろうとあえてその事を話題にしようとする人はいなかった。
独り暮らしをするには広すぎるマンションの寝室で、ぼうっと天井を見つめる。
お腹がぐうぐうと音を立てているが、何かを口にするような気分には慣れなかった。
「そういえば、君の名前を、しらないなあ。考えたこともなかった。ずっと側にいたから、呼びかけることもなかった。聞いておけば、よかったな。そうすれば、君が返事をしてくれたかも知れない」
――――名前はないのよ。だって私、AIだもの。
愛おしい、優しい声。ドキドキと心臓が高鳴る。
今度は嬉しさに、涙が止まらない。
「じゃあ、僕が君の名前を決めても良いかな?」
――――ええ、勿論。
「嬉しいよ。君は、僕に愛想を尽かしてしまったものだと思っていたから」
僕がそう言うと、彼女はクスクスと小さく笑う。
うんうん唸りながら彼女の名前を考える僕に彼女はたわいもない話をしながら楽しみだと繰り返す。そんな風に期待されると責任重大だ。更に頭を悩ませ、結局その日の内には彼女の名前を決めることが出来なかった。
――――その逆よ。愛想を尽かすなんてあり得ない。
――――私、貴方の唯一になれたのね。
僕はそれから、再び優秀な人間として人生を歩んだ。
堅実に仕事をこなし、定年する頃にはそこそこの地位に就いていた。
誰もが羨む、穏やかな人生を送ることが出来た。
妻と別れてからずっと独り身だったが、寂しいと感じたことはない。
何故って、僕の隣にはずっと変わらず彼女がいるんだから。




