てんぐさまと竜の結末
Nitoさんの支援絵「てんぐさま」 ※無断転載禁止
不気味なほど晴れ渡った空であった。
煌々と照り輝く太陽は、白い死神のようにも見えて。流れる雲の一つ一つが、上滑りするような静けさを伴っている。さて、何故だろうと人影は小首を傾げた。
ふと首を傾げる動作一つ取っても、青さをかすかに匂わせるような若武者である。飾り気のない鉄紺色の着物に、若葉のような色合いの羽織。如何にも旅慣れていそうな軽装だ。異彩を放つのは、小さな肩に背負われた大振りの太刀。刀身だけで四尺(約一二〇センチ)はあろうかという太刀である。とても、まともな人間が持ち歩く武具ではなかった。鎧武者でも切り倒そうというのならまだしも、手甲と脚絆以外、防具らしい防具もつけていない若武者には到底似合わぬ。
絹糸のように細い髪の合間、笹の葉のように細長い耳が揺れる。やはりか、と溜息。
違和感の原因は、小鳥のさえずりも聞こえぬ景色にあった。枯れ果てた樹木の成れの果てが続く、寒々しい山道である。生き物の気配一つない、というのはどうかしていた。
いや、そもそも。ここが浮世であるはずもない。ここは人気なき山、異界に数えられる場所。
人の世の道理など無用の長物――"おれ"は、これから夢幻を斬ろうというのだから。
薄暗い森を抜け、峠を登り切った。若武者は切れ長の眼を細めた――そこあるはずの眺めを思い描いているかのように。しかし今、その双眸に映るのは、どす黒い砂利と突起に覆われた黒い小山だけだ。
ごおお、ごおおおお、と風音を鳴らす洞窟が、ぽっかりと口を開けているだけの盆地。岩石のような隆起に覆われた地である。
「久しいな」
にぃ、と端正な顔立ちを歪め、若武者が笑う。
果たして、二つめの峠かと思われたものが、鈍い音を立ててうごめいた。道と思われたものは長い首、砂利に見えたものの一つ一つが鱗、洞窟と思われたものは顎。信じがたいほどの巨体が、ずるずると首を持ち上げた。小屋一つを丸呑みにしそうな顎が、黄金色の眼が開かれる。
邪知暴虐なる竜、異国のお伽噺にて物語られる類の大蜥蜴――天を突くような高さまで竜頭が持ち上がり、ぎょろり、と若武者を見下ろした。
風鳴りの音。竜の呼吸音を聞きながら、眉をしかめた。
「なんだ、おれの顔も忘れたのか……それとも、人の心を忘れたか」
呟きには、どこか寂しげな色。
若武者は太刀の柄へ手をかけた。鞘の角度をずらし、身をひねるようにして抜刀。驚くべき早業であった。
「来い。おまえに、終わりをくれてやる」
嵐を思わせる咆哮――若武者は、音もなく大地を蹴った。
◆
それは、男にとっては遠い昔のことだった。
何もかもくっきりと思い出せたのは、それだけの事件だったからである。薪拾いの帰り道、山道で倒れている旅人を見つけた。行き倒れだろうか、と近づいてみたのは、決して善意からではない。行き倒れの身ぐるみを剥ぐのは、男の生まれ育った山村ではごく普通のことであった。金目のものがあっても、換金する場所もない。それだけによい値がつくモノを、文字通り死蔵して息絶える旅人もいる。
そういう拾いものを行商人に売れば、思わぬ収入になる――家の支えになりたい一心であった。
結論から言えば、旅人は生きていた。まだ子供だった自分が近づいた途端、そいつは跳ね飛ぶように起き上がった。吃驚した。このとき、小便をちびりそうになったのは墓まで持っていくつもりである。尤も、うっかり妻へ話してしまったので秘密でも何でもないわけだが。
しかし息が止まったのは、別の理由があった。一言でいうなら、見惚れてしまったのである。
お世辞にも身綺麗とは言えない風体ながら、そいつは美しかった。艶やかな白い肌も、赤い唇も、空よりも青い不思議な瞳も、見たこともない髪色も、浮世離れした麗人である。その透き通るような眼差しが、自分を見ている。胸が高鳴った。
旅人が口を開いて――
「そこの童。食い物を恵む広い心を持ってはおらぬか。いや、持っているに違いない」
心の底から落胆した。
ひもじそうな余所者に、昼飯の半分を渡したのは我ながらどうかしていたと思う。名前を問うても、旅人は答えようとしなかった。子供の冷たい目線も何とやら、「飯の恩はあるが、名乗る名前を思いつかんな」と言って憚らない。そういうわけで腹が立った自分は、そいつに渾名をつけることにした。
思い上がっているろくでなしめ。
「――"てんぐさま"でいいよね」
「そこはかとなく邪気を感じるが」
それからどんな話をしたのかは覚えていないが――そう、こんなことを言われた。
「曲がり角の向こうには、何があると思う?」
意味がちっともわからなかった。"てんぐさま"はこの世のものには見えないし、やはり、気が触れていて頭がおかしいのかもしれないと思った。どうやら、それが顔に出ていたらしく、苦笑しながらそいつは講釈を垂れた。
「曲がり角の向こうは見通せないだろう? 良き出会いもあるが、そうでないこともある。一寸先は闇とも言うわけよ」
「だからお腹減って倒れてたの?」
「……言うな。自分が情けなくなる」
それから四半刻ばかり話し込んだあとだったか。いきなり"てんぐさま"は立ち上がって、旅支度を始めた。まるでこの地に、もう用はないと言わんばかりの態度。てっきり、村の方へ泊まるのだとばかり思っていたので、呼び止めた。
「てんぐさまは、何をしに来たの?」
「ん、ああ。調べ物をしていてな。おまえのくれた昼飯のおかげでわかったよ。美味い飯だ。魔に穢れてはいない……ここに、おれの探すものはない」
やはり"てんぐさま"は頭がおかしいのだ。昼飯と穢れ云々どう繋がるのかさっぱりわからない。正直に言って、このときの自分は浮かれていた。"てんぐさま"の異相や立ち振る舞いは、明らかに、村人や行商人のそれとは異質だったからだ。その非日常に胸をときめかせていた、と言える。
"てんぐさま"は、こちらの気も知らないで、しれっと別れの言葉を切り出した。
達者でな、と。
「おれには使命があるからな。おまえが生きている間に、再び会うことはあるまい」
飄々としている"てんぐさま"が、そのときだけはひどく寂しげに見えた。なんとなく、そんな表情は見たくないと思ったから、矢継ぎ早に質問をぶつけてしまったのだ。
「しめいって?」
「なぁに、つまらん古本探しだよ。昔、おれの親戚が書き散らした書でな――身内の恥だ、見つけ次第斬って捨てるため旅をしている」
「そんなにひどいの?」
「すごく悪い」
それって通りすがりの子供の昼飯の半分を恵まれるのより悪いのかなあ、と思ったのは言うまでもない。
"てんぐさま"は、別れ際、思い出したように警句を残していった。
「もし、おまえが書に誘われても――決して手を出すなよ」
意味など、わからないままの方がいい、と言い添えて。
それから何年も経って。
父母は老いて、その分、彼は大きくなった。幸い、大きな病や怪我をすることもなく健康に育ち、順当に嫁を娶った。同じ村の生まれで、よく見知った仲の幼馴染みであった。よく働き、よく笑う、良妻であった。一人目の子が生まれ、しばらくした後、二人目を身ごもったころのことだ。
息子が、行き倒れた余所者の持ち物を拾ってきた。黄金で縁取られた、異国情緒あふれる一冊の本――稀に行商人が運んでいる本を見たことがあるが、はっきりと異質だとわかった。
行き倒れと本。"てんぐさま"のことを思い出したが、今となっては子供のころの他愛のない思い出だった。彼には、家長として妻子と父母を養う責任がある。如何にも高く売れそうな代物だったので、誰の目にもつかぬよう、家財の奥深くへ仕舞い込んで、次の行商のときにでも売ろうと思った。
ほどなくして――
村を、賊が襲った。戦火などここしばらく聞いたこともなかった。だが、兆候はあった。最後の行商のとき、商人が不安げに語っていた不穏な便り。田畑の面倒を見るだけで手一杯の自分には、遠い異国のことのように思えたから、聞き流してしまった世相。
真っ黒な現実が、あっという間に村を飲み込んだ。人が死ぬ。家が燃える。田畑が荒らされる。
二〇年以上、見知ってきた風景が一刻と経たずに壊れていった。
逃げねばならなかった。取るものも取らず、一目散に山へ逃げ込むべきだった。それができたなら、どれだけ救われたろうか。
しかし、それはできない。
守らねばならぬ、妻子がいた。妻は身重であった――膨れた腹は臨月のそれ。急ぎ、逃げることなど到底叶わなかった。村からほど近い山裾に、一家揃って身を隠すのが精一杯。もちろん襲撃者にとって、そのような素人の浅知恵は恰好の餌である。程なくして人狩りが始まった。
逃げ遅れた女子供が、陵辱される声が聞こえた。意を決して飛び出した男たちが、弓矢で射られて倒れ伏していく。この世のどこにも、明日へ繋げる希望などないのだと悟った。震える妻の手を、怯えながらも声を我慢する我が子の息吹を感じた。
守りたいと願いながら、叶わないとわかってしまう。
いつの間にか、懐に一冊の書があった。最初からそこにあったかのごとく、肌に張り付く表紙の感触。
声が聞こえた。
――契れ。
さすれば万難を排する力を授けよう、とも。疑うことすらできない、不安と絶望の虚に染みこむような魔性の響きであった。
思わず、胸中で答えていた。最初から選ぶ余地などあるはずもなく、男は、運命のように書を開いた。一家を見つけた賊の、野太い雄叫びも怖くはなかった。禍々しい異国の文字へ指を這わす――そこで記憶が途切れた。
だから、やはり、男は幸福だったのだ。
後悔する余地など、微塵もなかったのだから。
◆
どす黒い瘴気が、渦を巻いて吐き散らされた。竜の放つ猛毒、血も肉も骨も溶かす、毒の吐息。木々を枯らし、雨水を毒へ変え、生けとし生きるものすべてを呪う死の具現。
人の身であれば、一息で腐り果てるであろう猛毒――されど若武者は、人と呼ぶには異形に過ぎた。大上段に構えた大太刀は、おおよそ、尋常の刀剣ではない。煌めく刃は鉄にあらず。太陽よりなお眩く、銀の光を放つ刀身――銀に似たる輝きと、鋼を断ち切る鋭さ――ミスリル銀の煌めき。
――いにしえの剣。
振り下ろしの一閃。闇色の風が、最初からなかったかのごとくかき消えた。竜の呪いをも断ち切る、神代の権能。巨大なかぎ爪が、横なぎに振るわれる――若武者は天高く跳んだ。竜の尾っぽが、飛び上がった得物を叩き落とそうと俊敏に追従。風を切り、その重さと速さだけで岩石を砕くであろう死が迫る中、そいつは口の端を歪めた。
「おれは――"てんぐさま"だぞ」
くるり、と。
足場もない空中で姿勢が変わる。宙を漂う羽毛にも似た身軽さで、尾っぽへ向き直る"てんぐさま"――まるでそこに足場があるかのように、極自然体に剣が振るわれた。その刹那、大地に支えられぬまま、体幹の筋肉が剣戟に注がれた。逆袈裟に切り上げられた尾の先端が、血を噴いて落下。残る尾っぽの上に、ふわり、と若武者が着地した。
竜が悲鳴を上げるよりも早く、尻尾から背中までを駆け上がる――身をよじり、痛みと怒りに震える竜が叫ぶ――その激しい動作と重量に耐えきれず、大地のあちこちが陥没している。
そこがかつて、人の住まう村であったなど、余人にわかるはずもない。背中から、竜の頭へ飛び移る。全体重を乗せ、脳天へ太刀を突き刺した。柄も入れれば身の丈ほどもある太刀が沈み込む。頭骨へ易々と刃を通し、仮初めの脳を形成する依代を――かつて人であったモノと、書を同時に刺し貫いて。
いにしえの剣を通じ、書に刻まれた記憶を読んだ"てんぐさま"は、ひどく悲しげな顔で笑う。
「おまえの村はな、百年も前に滅んでいる」
伝承曰く、竜は宝を守るという。
"てんぐさま"は目をすがめた。血を分けた家族は、魂も命も書に捧げた男にとって、何よりも守るべきモノだったのだろう。
だが。
「人は竜の吐息に耐えられぬ、竜の毒でころりと死ぬ。それが道理、我らの定めた竜のかたち。気付かぬよう狂おうと――」
竜と化した男が、真っ先に殺めたのは。
大気を震わせるのは、断末魔の絶叫であった。悲しげに、痛みに満ちた声を絞り出して、心を喰われた異形が死へ向かう。
救う術はない。
「――もう手遅れだ」
黄金色の竜の目から、光が消えた。嵐のごとく吠え猛る声が収まり、力を失った首が、どうっと地面へ倒れ込む。
いにしえの剣が、仇敵を誅したよろこびに、一際強く輝いた。しわだらけにしぼみ、末端から塵となって崩れていく竜の亡骸――森も、水も、獣も、人も、等しく呪い殺した化け物の末路だ。もう、ここに、在りし日の面影はない。水田は涸れ果て、雑草だらけの荒れ野となり果ててた。家々は土台も残らず腐り果て、土を掘り返しても基礎一つ見つかるまい。
"てんぐさま"は、竜であったものが塵の山に還るまで、ぼうっと立ち尽くしていた。元より、大した縁の相手ではない。久方ぶりに山を巡ってみれば、見覚えのある土地が、変わり果てていただけのこと。さらに言うなら、魔導書に縛られた魂が、顔見知りであっただけのこと。
幾百、幾千、幾万の冬を越えてきた身にとって、特筆するに値しない悲劇であった。長命たる"彼女"の種族にとって、人の世は悲劇と破滅に彩られた万華鏡だ。いい加減、見飽きもする。
それでも感傷は残っているから、若武者は言葉を吐き出す。この地で起こったすべてを、たった一言に押し込めて。
「曲がり角の向こうには――」
出会いもあれば、別れもある。