ロバート&ニキータ 3
戦型はワールドカップ決勝第一局と似た展開になった。
「さてさて」とヴィクトールが言った。「ロバートはどういうつもりなのかね?」
「hファイルですか?」と真田。
「そうだ」とヴィクトールが頷いた。「まるでビショップで突っかけてキャスリングを封じてくれと言っているようなものだ。ほら来た」
ニキータはBh6と指した。
これにロバートはBxh6と応じ、ニキータはクイーンでそれを取り返す。これでロバートはキングサイドへのキャスリングが封じられた形となった。ヴィクトールはこれに言及していたのだ。
「確かにおかしいですね」と真田が言った。「お互いクイーンサイドにキャスリングして玉頭でかち合うなんて、ニキータ相手には無謀としか......」
真田が言葉を中途半端に止めたところでラモスが彼の腕を突ついた。
「真田君、それでロバートはどうなんだ? 不利らしいのは今の話で伝わってきたが」
「ドローに出来れば御の字です」
「そうか、初戦黒番では星を飾るのは難しいか」
ラモスはおでこに手をやった。
ニキータもこの変調には気が付いていた。ロバートがキャンディデイトで見せた華麗で劇的な指し回しを、彼は今局で感じていなかった。
『敢えて次善手を選んだかのようなぬるく見える手......。確かにぬるい! これで何かあるなら! ロバート、僕は君を尊敬できる』とニキータは思った。
『だけど......、何もないじゃないか! ドローの道さえ!』
内なる激情は外には漏れず、少年は平静に見えた。頬杖をついて、やわらかな白い頬を持ち上げて、ロバートを上目遣いにチラチラ見ていた。
そしてニキータがQf4と指した時、モニター越しに対局を見るギャラリーはどよめいた。ロバートのキングが追い詰められているように見えたのである。
「メイト(詰み)は見えるかね真田君?」とヴィクトールが言った。
「いいえ」と真田はテーブルの上に検討用に並べたチェスボードを見ながら言った。「守勢にしかなりませんが、エンドゲーム(終盤)はあるでしょう」
これまでニキータは相手を序盤・中盤の内に敗北に追いやっていた。ニキータと対局して終盤までいくのはヴィクトールやワールドカップでの真田そして世界ランクトップのSGMくらいであった。
『おかしいな』と真田は思った。『ここまで来たら......勝ちの見込みがないことは俺にもわかる。ドローだってほぼ不可能だ。二人の実力から考えて、ロバートが負けても不思議じゃない』
『......しかし、その負け方が不自然だ』とヴィクトールは眼鏡のフレームを指で押し上げて思った。『ロバートにしては消極的に過ぎる。攻めの姿勢を少しも見せずにここまで進むなんて』
ニキータは取った黒ポーンの頭に指を置いて揺らしてオモチャにしていた。あらゆる角度から光がとんできているためにポーンは花弁のように周囲に影を開いていた。ロバートはニキータのその鋭利な白い指先を見て、彼は彼で白のポーンをペンのように指で回していた。
『何だろうなこれ......』とロバートは思った。彼には随分前から全てが見えていた。『ニキータにも全て見えているだろうか? ちゃんと見えているだろうか?』
彼は自分の手番だというのにチェス盤に集中していなかった。既に全て読み切っているので考える必要はなかったのだ。
『あの頃は......あれだけ大きく見えたSGMが、いつからだろ? 小さく見えるようになったのは......』
彼はアメリカを飛び出してヨーロッパとロシアを転々としていた頃を思い出していた。絶対にこいつを倒して王座を奪うと考えていたヴィクトール。老年ながら世界ランクトップクラスを維持しているタラス。順当に実力を上げたアーロン。各国選手権の王者達......。十五、六歳の頃のロバートは彼らと鎬を削って実力を上げていった。
『もしかしたら......俺はもう誰とも互角に戦えないのかもしれない』
ロバートはニキータの攻めを凌ぎ、黒のキングはバックランクまで到達した。
『確かにここまで相手になったのは君が初めてだよ』とニキータは内心で独言した。『今までの誰よりも添い遂げてくれたよ。でも......、手を抜いたのが僕にわからないとでも? 舐められてるとは思わない。舐められたって構わない。そんなことじゃ僕は怒らない。これは......』ニキータは仕事上見せられた多くの映画の中に自分の怒りと似た形態を見つけた。それはブロンド女優が「私のこと愛してもいないくせに抱いたの?」とヒステリーに叫んで、俳優に枕を投げつけるシーンだった。その時ニキータは、好きな男に抱かれたんだから喜べばいいのにとしか思っていなかった。
『これかあ......。あのブロンドが怒ってたのはこういうことかあ』
ニキータは指先で揺らしていたポーンを弾き飛ばしてしまった。
数手後、ロバートは投了した。チェス世界タイトルマッチ第一局はチャンピオンニキータの勝利で終わった。




