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ロバート インモータル 2

 ロバートは日中は湖畔を散策し、時には湖にボートを浮かべたりして過ごしていた。夜になればクリフトンの蔵書を適当に読み漁った。

 彼はボートの上で昼寝をするのを好んだ。大きな空と視界の端を囲うきらびやかな緑に、ずっとチェスボードの64マスしか見てこなかった自分の人生をみじめに思うようになった。

 ヨーロッパやロシア、そしてアメリカでも、チェスプレーヤー達がロバートの悪口を言う時に決まって言う台詞。

『あいつはハイスクールすら出てない。教養のない奴さ』

『あいつは捨て子で孤児院で育ったんだ。だから品性に欠けるのさ』

 今までなら『俺よりチェスの弱い馬鹿共のくせに!』と一蹴していたが、今では、そんなのは妬みの言葉だとわかりきっていても、どうしても心に重くかかっていた。ここではそういう悪口の代わりにクリフトンの憐れみの目が向けられるのだ。湖の静かな波の揺れが、彼の精神をそんな罵詈雑言とコネ合わせるように感じた。そんな時はオールを力いっぱい漕いで、何も考えないようにしていた。


 クリフトンの蔵書にはチェス書と学術書以外に文学作品もあった。ロバートは文学作品を読み漁り、ヨーロッパの棋士達が度々会話の中に引用する文句の原点を見たりした。

『あいつらはこの台詞や文章を引用していたのか。ちっ、くだらねー知識をひけらかしてチェスで負けた憂さ晴らしをしてやがったのか』


 ここでロバートはいつも夕食を本を読みながら食べていた。クリフトンがそれを見る。彼の目はやさしくも「行儀が悪いぞ」と言っていた。ロバートはこの目に気付くのが嫌でそうした行動をとっているのだった。


 ある朝、クリフトンは新聞を読みながら珍しくロバートに話かけた。

「あのロシアの少年がヴィクトールに勝ったようだ。最年少世界チャンピオンとはね......」

 ロバートは老人に一瞥をくれたが、コートを羽織って外に出てしまった。


 薄く雪が積もっていた。湖の向こうに見える青くそびえる山々の冠雪は見事だった。またしても、大きな自然がロバートに惨めな思いをさせた。雪を踏みならし、振り返って見ると、真っ白な雪の中に、雪が剥げて干し草色の混じった雑草の緑が飛び出したりしていた。それが一瞬、ロバートには白と緑のマス目のチェスボードの模様に見えた。一度チェスボードに見えてしまうと、その先にどうしてもニキータの顔が浮かんできた。

『あいつは世界チャンピオンになった! なぜ俺じゃなくてあいつだったんだ!』と内心で独言して雪を蹴り散らした。そして遣る瀬無さにおそわれ、木にもたれかかった。

 もし目の前にニキータがいたら......、彼は漆黒に光る髪の毛先を風に揺らしながら、こちらをじろじろ見るだろう。普段、少年的な目を装っていながら、時折見せる、まるで色事を知ったばかりの少女のような挑発的な目つきで! あの手術台の上で検視される新鮮な死体のような蒼白な肌、その中に、水滴を湛えるように光を湛える長い睫毛に縁取られた青い目に、雪原に血を撒いたように紅く輝く唇。あまりにコントラストが過ぎるためにニキータの姿は誰の脳にもしつこく焼き付いていた。

『いや、チェスのことを考えるのはやめよう。あれはもう純粋理性の産物なんかじゃないんだ』

 ロバートは半紙に墨を垂らすように、頭に浮かぶイメージを必死ににじみ潰そうとした。

 辺りは静寂で、穏やかな風が木立を通り過ぎやさしく草木をなでる音だけが聞こえていた。

 ロバートの中では様々な思念がこねくり回され、木のかげに誰かいるのではないかと気配を感じるほど激しい荒れ模様だった。彼の激情からすれば、ここが激しい吹雪にふかれていないのは理不尽であった。

 こちらの心に、感情に、自然は何も応えたりはしない! クリフトンの蔵書の文学作品では、人物の感情に呼応した風景描写が添えられていた。文学者共はこの大きな自然は人間の気持ちに都合よく形を変えてくれると思っているらしい。

 錯覚である! 錯覚である! それは感情に濁った曇った目による錯覚である!



 ロバートがコテージに戻ると、クリフトンがストーブをいじっていた。

「やあ、おかえり。外は冷えたろう。今、コーヒーを淹れよう」

 彼らはコーヒーをのせた小さな食卓テーブルに向かい合った。ロバートは、このテーブルに着く時はいつも本棚から適当に抜き取った一冊を持ってくるのだが、今回はその限りではなかった。

「おやおや、読書はお休みかね」

 クリフトンはそう言って、チェス盤を取り出し、駒を並べた。彼の傍らには新聞があり、それに載っているニキータ、ヴィクトール戦の棋譜を並べるつもりらしかった。

「凄い指し手だね......まぁ、私にはわからないのだが」

 クリフトンの事実上の独り言に、ロバートは彼の並べる盤面を見てしまった。

 瞬間、ピース達が幽体離脱でもしたかのように光輝く分身を作り出し、それが電流のような速さで盤上に稲妻の軌跡を走らせた。強い光を目に受けた時のように、ロバートに網膜にそれらの光線が焼き付いた。耳鳴りがひどかった。彼は頭を抱えて、テーブルから体を逸らした。

 クリフトンはチラと目を上げて彼を見た。

「私は君のことをある程度は知っているよ。君のファンやチェスファンが知っていることならね。しかし君はもう何ヶ月もここにいるのに、私のことを知ろうとも勘ぐろうともしないね」

「クリフトン・ヴァン。ただのチェスファン。さみしい独居老人。十分だろ」

「まぁ、言えてるね(That's right)」

 クリフトンは駒を動かした。

「君が聞いてくれれば、身の上話でもしようと思っていたんだよ。ここで私が独り言を続けるとして......、君はまだゆっくりとコーヒーを味わってくれるかい?」

「おかわりを貰ってやるよ」

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