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ロバート インモータル 1

 ロバートは挑戦者決定戦を終えると、すぐにアメリカに戻っていた。安いホテルを拠点としながら数日を無為に過ごしていた。チェス盤に向かい、一人で研究しようとすると、頭にニキータの失望したような拍子抜けした顔がチラついた。それでチェスボードをひっくり返した。ピースを拾う気にもなれず、散らかったままにしていた。

 ある晩、ロバートは普段から酒を飲む人間でもないくせに、ふらりと大衆酒場へと入った。店内は大学生や定職に就いていないような男達でいっぱいだった。

 海外を飛び回り人前に出ることの多いロバートは、この場には相応しくない洗練された格好をしていた。ツヤのあるビジネススーツに身を包み、ビジネスマンらしく髪を整え、背の高い姿勢をピンと伸ばした白人の彼は、人々の目にまさにエリートに映った。店内は一瞬静まり返った。客達はエリート白人らしき男をじろじろと見た。ロバートはそんな客達を一瞥いちべつしてカウンターについた。

「何でもいい......、あー、ビールをくれ」

 ロバートはそう注文して頬杖をついた。彼はカウンターの向こうに並べられている酒瓶の数々を見つめた。酒を飲ませる店らしくカラフルな酒が入った瓶がみっしりと並んでいる。しかしどれも量販店で手軽に買えるような安物ばかりだった。アメフト部らしき体格の良い学生達が飛び上がったり、レスリングの真似事をする振動に、透明な瓶の中で赤色の水が小刻みに震えた。注文したビールがカウンターテーブルに置かれた。そのビールの泡も学生達の動きに震えていた。ロバートはこの騒がしい学生達に一瞥をくれた。これがいけなかった。学生の内のタンクトップを着た大きな男一人が、

「何だこの野郎!」

 と言ってロバートに近づいてきた。ロバートはいつも通りの目つき、つまり人を馬鹿にした見下した目つきで男を見た。

「おうおう、何だその目は? エリート様よう」

 男はロバートの左肩を突き飛ばした。ロバートは男に押されると同時に、右手でビールを男目掛けてひっかけた。

 二人は様々な暴言、差別用語を交えた侮辱を叫びながら掴み合った。男とロバートは互角に掴みあったが、他の学生達が男に加勢した。



 ロバートは警察の留置場で目が覚めた。唇が切れているのがわかった。頬を撫でると痛い、あざができているようだ。体のあちこちが痛んだ。

 やがて警察官がやって来て、

「坊や。出な。保護者様のお迎えだぜ」

 鉄格子を開けて言った。

 ロバートは痛む自分の頬を撫でながらため息をついた。

『保護者......、サトシだろうか?』

 と彼が考えていると、目の前に現れたのは、見知らぬ白人の老人だった。彼はカジュアルスーツに身を包み、太っていて禿げた頭にクリスマスカードのサンタクロースのような白い髭をたくわえていた。

「おやおや、栄光の天才少年ともあろう者が......」と老人はロバートを見つめた。

「肉体でも負けたらしいな。せっかくの良いスーツがボロボロじゃないか」

「負けてない。一対一なら負けてない。あいつらはよってたかって卑怯者なんだ」

 ロバートは迎えに着た老人を不審に思いながらも、さも知り合いかのような振りをした。


 二人は留置場を出て、ニューヨークの通りを歩いた。

「なあ、警察に何て説明して俺を引き取ったかは知らないが、あんたは誰だ? 誰かのお使いか?」

 ロバートは老人の後ろを歩きながら言った。

「もう少し丁寧に話し給え」

 老人は立ち止まり振り返った。

「私はクリフトン・ヴァン。ただのチェスファンだよ。君には休息が必要だ。都会のホテル暮らしは落ち着かないだろう。ここへ来るといい」

 クリフトンはそう言って、名刺を差し出した。裏には住所が手書きで書いてあった。

「きっと来てくれるね。じゃあ私はこれで」

 クリフトンはタクシーを停めて、それに乗って行ってしまった。

 ロバートはボタンが破けシワくちゃのジャケットを脱いで肩にかけた。早朝、ふぅっと吐いた息は白かった。革靴と歩道のアスファルトが擦れて、砂利が鳴いた。

『ニューヨークはこんなに汚かっただろうか』





 ロバートはホテルで一泊した後、クリフトンという老人の示した住所に向かった。飛行機と電車とバスを乗り継ぎ、彼は湖畔のコテージに辿り着いた。

 ドアを叩くと、クリフトンが笑顔で出てきた。

「やあ、よく来てくれた。信じてたよ」

 ロバートはクリフトンの招きに応じて屋内に入った。家の中はきれいに整頓されており、ベランダから湖が見渡すことができ、そこに描きかけの絵がかけられたカンバスが放置されていた。壁という壁は本棚になっていて、大量の物理学と数学の学術書、そしてロバートの棋譜集を含むチェスの本が並んでいた。

「さみしい独居老人のカビくさい家じゃなくて安心したよ」

 一通り見回してロバートが言った。

「さみしい独居老人ってのは正解だよ」

 クリフトンは食卓テーブルに腰掛けて、ロバートにも座るよう促した。

「気が済むまでここにいて良い」と言って、クリフトンはテーブルの端に置いてあった折りたたまれたチェスボードを持ち上げた。

「一日一局でいい。私の相手をしてくれないか? それが滞在費でどうかね」

 クリフトンの言葉に、ロバートは腕を組んで眉を吊り上げた。

「チェスはいやかね? なら一日五十ドル請求してもいいが......」

 老人がこう言いかけた所で、ロバートはポケットからドル札を取り出しテーブルに放り投げた。

「誰か......君を、いや......なんでもない」

 老人は目を臥せて首を横に振って言った。老人は、誰か君を教育をしてくれる者はいなかったのかと言いかけた。ロバートは老人が飲み込んだ言葉を察していた。彼が親に捨てられた孤児だというのはチェス通には有名な話だった。

「ゲストルームは? あ、これは食費込みだろう?」

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