真田智史 14 vsニキータ・コトフ
決勝も同じスタジアムの、同じステージ上で行われる。しかし一つだけ違うのは、ステージ上に大きなガラスケースが設置され、その中にチェステーブルが置かれていた。両対局者は完全防音の隔絶された空間で二人きりになる。観客がいくら騒ごうが彼らには何も聞こえない。
真田とニキータはステージ上に拍手で迎えられた。そして何があるでもなくすぐにガラスケースの中に収容された。真田はすぐに席に着いたが、ニキータはケースを中からコンコンと叩きながら一周した。観客は少年の行動に失笑したが、二人からは観客達の表情変わったのがわかるだけで笑い声は聞こえなかった。
「大丈夫。しっかり防音されてるよ」
と真田は言って、ニキータに座るよう促した。
ニキータが席に着くと、スピーカーから「それでは、始めてください」と審判の声が聞こえた。
ファイナル第一局、真田は白を持った。彼は純粋にe4と着手した。
『さあ、e5とキングズオープニングか、e6とフレンチか、c5とシシリアンか、c6カロカンでもd5スカンディナビアでも......ニキータ、君が見つけた『完全なチェス』のひとつでも見せてくれ。どの定跡だ』
いつもは秒も置かずに即指しするニキータがすぐには指さなかった。少年は頬杖を突いて、チェス盤と真田とを交互に見やった。観客達の頭がせわしなく動いているのを、真田は視界の端に感じ取った。
五分が経った。
ニキータはg6と着手した。
予想外の手だった。ニキータはほとんど定跡に忠実な棋風だった。相手が定跡を外せばそれを徹底的に咎めた。彼が定跡を外した手を指せば、それが新定跡とも言われた。そして彼の指さない手は死んだ手とさえ言われた。『完全なチェス』の解明を目指すニキータ自らが殺した手を、盤上に投げた。
「まずは、味わわせてよ」
ニキータは真田に微笑んだ。血を啜ったように赤い小さな唇が薄く曲線を描く。こちらの官能を挑発する少女ような微笑。そしてそれを見透かして楽しむような人を陥れる毒素を持った目。
『ニキータはまだ俺を認めていない』
神聖な決闘場にて、そう思っていたのは真田だけだった。ニキータが誂えたのは整備された道の上ではなく、血と泥がこね合わされた戦場に転がる大量の死体の上を駆け回るような戦い。その上を走れば、踏み潰された果実のように、人間だったとは思えない黄ばんだ包帯の色をした肉はくずれ、弾けるだろう!
真田はニキータの一手一手に、相手を腐肉の泥沼に陥れるような悪魔の一手一手に、喉を詰まらせながら刃を構えた。
ニキータの意表の指し手にも真田は冷静だった。
序盤は教科書通りに。
中盤は道化師のように。
終盤はコンピューターのように。
それこそがチェスの原則。序盤から道化師となったニキータにも、真田は教科書通りに対応した。真田にはまだニキータの狙いがわからなかった。キングサイド、クイーンサイド両翼のどちらから攻めてくるか? センターからカウンターが飛んでくるか? または攻めずに守備的になるのか? 血の臭いの混じった腐敗ガスと霧で視界を奪われ戦場で一人立ち尽くすようなものだった。定跡という道しるべは既になかった。巧妙に誘い込まれた視界不良の戦場で、真田は悪魔の一撃を待っていた。
やがて霧を裂いて顕になったニキータの攻撃はクイーンサイドからのものだった。b5まで伸ばされたポーンにナイト!
真田はこれと正面からかち合った。ロングキャスリングによって攻撃的に位置された真田のルーク。攻撃と攻撃が中央でぶつかった。
まるで闇が迫ってくるようだった。霧を裂いて現れるのは、自分を飲み込もうと迫ってくる闇。真田はそれをかわしながら、攻撃すべき相手にじりじりと迫っていた。
ニキータはいつもと違っていた。まるで“全うなチェスプレーヤー”のように一手一手時間をかけて指していた。
局面は中盤も終わろうとしていた。他のプレーヤーなら、すでにニキータを前に頭を垂れているところである。
盤上からクイーンが消え、手順の変化は単純なものになった。霧と闇が晴れたようだった。真田は積極的な姿勢を崩さなかった。
お互いの攻めと攻めがぶつかり合い、中央で鍔迫り合いの様相になった。お互いのビショップが同じマスを行ったり来たりした。
千日手で引き分けか!? 観衆は息を飲んだ。幼い頃の不戦敗を除き、未だ敗北はおろか引き分けさえ許さず、勝ち続けて来たニキータがついに追い込まれるのか。誰もがそう思った。引き分けを避けるにはニキータが手を変えなければならない。またここで彼がビショップを動かせば、無名の日本人は史上最強のチャンピオンから引き分けをもぎ取ることになる。
ニキータは対局開始直後にそうしたように、盤上と真田を交互に見やった。
「すごいね。将棋指しの魂ってやつ?」そう言ってニキータは頬杖をついた。
「でも......、まだわからない」
ニキータはRc8と指した。彼は引き分けを拒否した。ニキータが最善手を外した。つまり真田が押し込んだのだ。
彼は鍔迫り合いから身を引いた相手を確実に切り伏せれば良かった。ここから最善手を続ければ勝てるという確信が彼に重くのしかかった。
『間違えてはいけない......』
喉が詰まり、手が震えた。一手一手進めるのに一々手が盤上の空を泳いだ。早鐘を打つように鼓動が激しいのがわかった。手から噴き出した汗が彼の指を滑らせ、ポーンを転がしたりした。
真田がおよそ平静と呼べる状態に戻った時、彼は負けていた。
真田は「リザイン」とキングを静かに倒した。彼は目の前の、美少年の目に光がこぼれたのを見てしまった。
「サトシじゃ......、なかったね」




