真田智史 13 前夜
観客席の拍手は止まない。真田はよろけながらバックステージへと下がった。観客の目がない所まで来ると、彼はそのまま床に腰をおろした。止みかけた拍手と、運営スタッフのアナウンスが聞こえた。頭がぼーっとしていた。今、何があった? と彼は記憶を辿る。
『ああ、セミファイナルで......、ヴィクトールに、勝った......?』
真田は目をつぶって下を向いていた。ハイヒールの音が遠くから近付いてきた。
「おめでとう。真田さん」と彼の目の前に立ったアレクサンドラが言った。
「そんな所に座り込んで、行儀悪いわよ」
「はは......、悪いのは行儀じゃなくて、具合です......なんてね」
「元気じゃない」
アレクサンドラは鼻で笑って、前屈みになり、真田に手を差し出した。転倒したスポーツ選手同士がやるような、助け起こすための手を。真田はその手に頼らず立ち上がって、スラックスから埃をはたき落とした。
「光栄ですが、さすがに女性の手は借りれません」
「あら、古臭いジェンダーロールの考えを持ってるようね。騎士道、いやあなたの場合はブシドーかしら? まぁそういうの嫌いじゃないわ」
彼女はそう言って、一瞬目を臥せた。
「おめでとう。私に勝ったんだからベスト8くらいは、と思ってたけど、あなたやり過ぎよ」
「どういたしまして。今日はライブ放送のゲスト解説だったそうですね。俺は早く帰って休みます」
「待って」と彼女は、その場を去ろうとした彼の袖を掴んだ。
「第二局、素晴らしかったわ。あなたが、定跡を書き換えるような一局を生み出すなんて」
「ええ、ヴィクトールさんのおかげです」
真田は微笑んでバックステージを後にした。
真田が出て行くと、入れ違いにヴィクトールがバックステージに降りてきた。
「おや、アレクサンドラ。こんなところにどうした? 真田君に会いにでも来たのかね?」
「別に......。それより、第一局、随分と早い段階でドローオファーしたわね。最後まで指せば彼はついてこれなかったんじゃない?」
「まぁ......、そうだろうね」と言って彼はフフと笑った。
「ニキータに会わせてやりたくてね。無闇に若い芽を摘むのは良くないだろう」
「その言葉。アーロンやレオニードに聞かせてやりたいわね」
外は夕日が出ていた。真田は、日本は午前中かと思って電源の切ってある携帯電話を見た。昨夜の着信とメールの嵐を思い出して電源は切ったままにしておくことにした。
彼はホテル内のレストランで夕食を食べようかと考えたが、人の声を聞きたくなかったので部屋でルームサービスを頼むことにした。彼はロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗った。その時、閉まりかけたドアを開けて滑り込んで来る者があった。それはニキータだった。
「ハイ、サトシ」
なんて欧米風の挨拶を少年は真田に向けた。ニキータは真田が押した階数のボタンをチラと見て、真田に微笑を向けた。
「やぁ、どうしたんだい」
ニキータはまた微笑むだけで答えなかった。
真田がエレベーターを降りるとニキータも一緒に降りた。真田は後ろを振り返って少年を見るが、彼は手を後ろに組んで微笑し、面映ゆい様子でもじもじとしていた。真田は部屋のドアの前に着きカードキーを刺して開錠した。すぐ後ろにはまだ少年がいた。彼は微笑を向けてきたかと思うと、目を逸らしたりした。
『子供特有の戯れだろう』
と思い部屋に入り、ドアを閉じようとすると、ニキータが足をさしいれてきた。
「入れてよ」
ドアの隙間からニキータの大きな青い目が覗いていた。真田はこの行動に驚いたが、すぐに『どこでこんなやり口を覚えた? どこでこんな悪い影響を』と大人らしく考えた。
「入れて欲しかったら最初から言いなさい。エレベーターに乗ってる時に言うもんだよ」
真田はニキータを部屋に招き入れた。小さな食卓テーブルの椅子を引いて、少年を座らせた。
「これからルームサービスで夕食を食べるところなんだ。ニキータは?」
「さっき食べた」
「わかった。デザートはどうだい?」
ニキータはルームサービスメニューに目を通して、
「チョコレートパフェ」
と注文した。
「俺のところに遊びに来たのかい?」
ニキータの向かいに座って真田が言った。
「お祝いに来たんだ」と言ってニキータはポケットをまさぐった。
「これあげるよ」
ニキータが取り出したのは指輪だった。見るからに安物で金と銀の色は塗られているものだとわかった。
「指輪?」
するとニキータは指輪はバラバラに崩し、六つの輪が繋がった状態にしてしまった。
「知恵の輪ってやつだよ。昔、お父さんがよく買ってくれたんだ。指輪状のものがあるって最近知ってね」
ニキータはバラバラになった状態で真田に渡した。
「ありがとう。大事にするよ」
真田は笑顔で受け取って、すぐに組み立ててやろうとしたが、全く歯が立たなかった。
「ニキータ、一回組み立ててみてくれないか?」
「やだ」
やがて食事が運ばれて来た。二人は食べながら話を続けた。
「ロバートはどうしてるの?」
「さあ、去年のキャンディデイト(挑戦者決定戦)以来会ってないんだ。連絡も繋がらない。ニキータは何か知らないか?」
「僕は知らない。でもどこかでこの大会は見てるかもね」
「だったらいいが......」
真田はモスクワチェススクールで、唇を切って血だらけにした棋譜用紙を持ったニキータの言葉を思い出していた。
『どっちが僕の相手になるのかな?』
そして隔てられたガラスの向こうで言った、
『1人じゃチェスは見せられない。もう1人必要なんだ』
という言葉。
ロバートではなく自分かもしれない!
ロバートとニキータこそが、選ばれた二人として、二人が『完全なチェス』を生み出すのだと思っていた。
真田は自分がファイナルまで残ったことに、『ロバートではなく、俺とニキータで完全なチェスを生み出すのかもしれない』という思いを強くした。
「ねぇ、サトシはどう思う?」
「え?」
「『完全なチェス』の結論さ」
「ああ。難しいな。お互いが全て最善手を指し続けたら......ね。白必勝か、引き分けか......」
「僕はね」と言ってニキータはスプーンをパフェのグラスに投げ入れた。スプーンがグラスの中を踊ってけたたましい高音を響かせた。
「何通りか......結論らしき道を見つけたよ」
真田はこの言葉に眉を吊り上げた。
「まさか、是非ご教授願いたいね」
「盤上で、ついてこれたらね」
ニキータはそう言って微笑んだ。彼は立ち上がって、
「パフェごちそうさま。明日、楽しみだね。じゃぁ、おやすみ」
と言って、部屋を出て言った。
その夜、真田は夢を見なかった。




