真田智史 12 vs前世界王者
「あ、ドローになった」
国実の部屋に集まった棋士の一人が言った。
「これからどうするんだ?」
「先手と後手を入れ替えてもう一回やるんだよ」
「お、真田のやつ、まだチャンスあるじゃん!」
と岡部。
「お気楽な奴だな。次は後手番で、相手は前世界チャンピオンだぞ?」
と国実は腕を組んで言った。
「ドローになるまでついて来れるとも思ってなかった。君はもう十分な実力者だ」
ヴィクトールはそう言って席を立った。小休止の後、二局目が始まる。真田はまだ頭を抱えていた。彼は疲労に押しつぶされそうになっていたが、
『もう三十路だってのに、運動してなかったからかな......』
と自嘲するだけの元気はあった。彼はニキータとアーロンが対局していた机を見た。既に二人の姿はなく、ニキータは決勝進出を決めていた。ニキータは早指しだ。ヴィクトールと真田が一局終える間に、二局マッチを終わらせていた。誰もいない椅子の上に、アーロンがうな垂れている姿が見えた気がした。真田は傍のボトルを手にとって水を飲んだ。
ややあって対局席に二人と審判がそろった。第二局が始まった。白のヴィクトールは初手をd4とした。真田は再び水に沈んだ時間に潜り込んだ。雑音は消えた。
戦型はセミスラブディフェンスになった。白のd4に対して、黒の選び得る攻撃的な戦法だった。真田は先の対局でヴィクトールが見せたような、ストラテジックな指し回しは出来ない。とにかく攻撃的な手を読み続けて、あるかもしれない希望を拾うことを考えていた。前局は例えるなら、日本刀を持った真田が延々と斬りかかるも、ヴィクトールはそれをシャシュカ(ロシア伝統のサーベル、デザインが日本刀に似ている)で以って全て受け止め、お互いに刃が砕け散った様相だった。
今局も真田は果敢に斬りかかる!
真田はクイーンサイドからの攻めを展開したが、彼の指し手は知らず知らず定跡通りのものだった。ヴィクトールは考える必要もなく、“知っている”通りに、この攻撃を軽くさばいた。これで真田は一手攻めが途切れる展開になってしまった。彼の第一感は守備の手だった。もちろん定跡はその通り守備の手である。ヴィクトールは、攻撃的だった真田に守備的姿勢に転換することを強要する局面を突きつけた。
『ここで守って......』
真田の手がチェス盤上を泳いだ。盤上の上を透明な駒が走り回る。しかし、ヴィクトールのストラテジックな指し回しはキャリアの浅い真田に読めるようなものではなかった。今まで守備的であったヴィクトールが主導権を握ったら? 真田は相手の攻撃を、サーベルの斬撃をさばくことができるだろうか......?
途端に盤上を躍っていた駒の幽体は消えた。ここは一歩引いて......、なんて考えられなかった。
『俺は一体......、何をしている......?』
彼の認識が俄かに蘇った。時間が急に加速したと思った。会場の強い照明に目を刺された。雑音がひどかった。審判と記録員の咳払いと呼吸音が明瞭に耳に障った。観客の誰かがキャンディーの包みを開けた。その反対側で誰かが飴玉を噛み砕いた。観客席後方に一つ、脚が軋む椅子があるのがわかった。
彼は、顎を打たれ記憶を飛ばされたボクサーのように周囲を横目で伺った。盤上の空に泳がせたままになっている手が震えた。彼は震える手を頭に持っていき、髪をかきあげた。
『これは......、チェスじゃないか......』
真田は頭に手をやったまま、ふふっと鼻で一つ笑った。そして眉を吊り上げ、首を小さく横に振った。
『チェスだ。目の前にチェスがあるぞ』
ヴィクトールは真田をチラと見て、訝しげに片眉を吊り上げた。彼は、目の前の相手は集中力を切らしてしまったのではないかと思った。『これで終わりか?』とさえ思ってしまった。しかし、その刹那、真田の目つきが変わったのがわかった。闘志みなぎる前のめりの先ほどに目つきとは変わって、怜悧に高みから鳥瞰する落ち着いた目になった。そして、真田はBd6と攻撃的な手を指してきた。
「あっ」
声をあげたのは日本の岡部だった。インターネットのライブ放送で、真田がBd6と着手した途端に、コンピュータは真田敗勢と評価した。
国実の部屋にいる棋士達も次々とうなだれた声を出した。
「ダメかあ」
「これが敗着なのか、ひと目じゃよくわからんな」
「白もこっから決め手があるってことか? どういう手順だ?」
ライブ映像を見ていた岡部は、真田の様子が一瞬おかしかったのに気がついていた。
「やっぱ、あの時に集中力切れちゃったんですかね?」
岡部の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、国実は腕を組んだままモニターを食い入るように見つめ、眉をしかめた。
「本当に......、敗勢か? 本当にこれが敗着か?」
国実はまるで自分が対局しているかのように、表示される盤面を見ていた。
ヴィクトールは攻め過ぎたビショップを標的に、攻めを展開した。マスターと呼ばれる人間なら誰でもわかる手順で攻撃し、彼は真田のルークを取った。
『これが剣闘なら......、君は片足を斬られたぞ、真田君』
この手を見て、会場からいくらか観客がそっと帰るのがヴィクトールにわかった。
『仕方ないさ。GM同士で......ましてやこの私にこの駒損では誰も希望を見出さない』
しかし、ここで会場を後にした観客たちは後悔することになる。真田は表情を変えなかった。
真田は攻めの姿勢を変えなかった。片足が利かなくなった侍は、間合いを取るでもなく、刀を捨てて膝を着くでもなく、目の前の敵、サーベルを持ったロシアの騎士へと突進した。
Bxh2‼
真田は“攻め過ぎた”ビショップでヴィクトールに掴み掛かった。ヴィクトールは目を見開いた。
『今度は片腕が無くなるぞ!』
「おいおい、なんだこれ?」
日本で棋士達は頭を抱える。コンピュータは未だ真田敗勢の評価値を示していた。
それまで険しい顔をしていた国実が急に表情をほころばせた。
「おい......。勝つぞ......、智史が勝つぞ!」
国実が叫んだ途端、コンピュータの評価値が大きく動いた。コンピュータがようやく彼らに追いついた。
ヴィクトールはRxh2とビショップを取った所で、違和感を覚えた。
『おかしい......。私の攻め手が見えなくなった』
掴み掛かかってきた相手の片腕を斬り飛ばした。腕は力を失ってだらりと宙を舞う。しかし...相手は日本刀の切っ先をこちらに向けている! シャシュカは? 相手の片腕を落とすのに伸びきった腕の先......。
真田はクイーンを前進させた。クイーンという刃がロシア騎士の胸を貫いた。ここでヴィクトールは全てを悟った。
観客席がざわついた。凡そチェスの常識では考えられない手順から、前世界チャンピオンが、無名の日本人にチェックメイトされようとしていた。
ヴィクトールは落ち着いていた。顎鬚を撫でながら盤面を見ていた。
『私の誤ちは、攻め過ぎを咎めようとしたこと。あのビショップは間違いじゃなかったというのか。ルーク損定跡なんて誰が考える!? そこからさらにビショップとポーンの交換!?』
ヴィクトールは真田を見た。彼はあの怜悧な目でまだ盤面を見ている。
『これはショウギ指しの目だったか。フフ......そうだ、ショウギとはどんな駒損も厭わず相手をチェックメイトさせるものだった。四肢が無くなろうが、とにかく命を取る......か』
「リザイン」とヴィクトールは立ち上がって握手の手を伸ばし、「君の勝ちだよ」言った。
真田も立ち上がり握手の手を握った。声が出なかった。彼は疲れ切った顔で、無理に口角を上げた。
「ミスター真田。素晴らしい一局だった。素晴らしいマッチだった。私は君に感謝するよ」
立ち上がり握手を交わす二人に、観客も立ち上がり拍手を贈った。カメラのフラッシュがけたたましく両雄を照らした。




