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真田智史 11 vs前世界王者

 ルージン・スタジアムは観客と報道関係者でおびただしかった。準決勝となり特設ステージが設けられ、ベスト4の選手はそこでスポンサーロゴの入った壁をバックに対局する。ロシアのスラブ三色旗が三つ並んでいた。その中に星条旗が一つだけはためいていた。


 薄暗いバックステージにはニキータ、アーロン、ヴィクトール、真田が選手入場のアナウンスを待っていた。

 ヴィクトールとアーロンは相変わらず、光沢ある高級なスーツを着、背筋が伸びていてその高身長が映えていた。まるで彼ら二人がこれから決勝を戦うようである。

 ヴィクトールが真田に近付いてきた。

「緊張しているかい?」

「少し」

「セミファイナルともなると......雰囲気は全然違うからね......」

 ヴィクトールは金の顎鬚を撫でながら言った。

「ヴィクトールさんは慣れっこですか?」

「フフフ......ここまで来たら、私だって少しは緊張するさ。それよりも、真田君、君がここまでくるとは思っていなかった。良い対局にしよう......。 ショウギプレーヤーのチェスを世界に見せたまえ」

 ヴィクトールは真田の背中を叩いた。入場のアナウンスが聞こえた。ヴィクトールは真田に背中を向けて前を歩きながら、チラと振り返って言った。

「チェスプレーヤーの囲碁よりはマシだろう?」

 真田はこれに微笑した。

「ええ、きっと......」


 四人は盛大なフラッシュを受けながらステージに上がり、席に着いた。審判の男がロシア語で何かアナウンスしている。次いでそれが英語に訳された。

 真田は目の前のヴィクトールをチラと見る。彼は盤面に目を落としていた。その視線につられて、真田も盤面を見た。チェスボードがいつもより小さく見えた。

『端から端まで、しっかりと見える』

 彼は参考書などで盤面の一部だけを切り取った部分図を見るような、余裕を持った心地で盤面全体を捉えられた。

『このマッチ。一局目、俺が白番。ここで確実に勝ちを取る。そして二局目の黒で負けさえしなければ、引き分けを取る。それがベストだ』

 世界のトップチェスプレーヤー同士の対局ともなれば、先手に多少のアドバンテージがある。テニスのトッププレーヤー同士の試合で、サービスゲームをブレイクするのが難しいように、チェスでは黒番を持って展開の主導権を握ることは困難である。マッチが持ち時間の短いタイブレークに突入すれば、キャリアの浅い真田に望みはなかった。彼は最初の二局マッチで勝負を決めなければならなかった。

 試合開始の合図があった。真田は一手目を着手して、チェスクロックを押した。



 日本は夜の八時だった。国実が一人で住むアパートに岡部が招かれた。パソコンを前に国実の棋士の友人たちが既に三人いた。彼らはチェスワールドカップセミファイナルを戦う真田を観戦するために集まった。

「国実さんと俺だけだと思ったから、つまみもお菓子もこれしかないですよ」

 岡部がテーブルの上に買い物袋を置くと、彼らはそれをひったくり、すぐに食べてしまった。

「プロ棋士にも、ビジネスマナー研修とか必要じゃないですかね。竜王?」

 と岡部。

「俺に言うな」

 と国実。

「もう対局始まって二時間でしょう? 真田はどうですか? ってうわ......まだ互角なんですね」

 岡部がテーブルに置かれたパソコンの画面を覗いて言った。

「よくやってるよ。前世界チャンピオン相手にまだ互角を維持してるんだ。これは良くて引き分けって所か。白番でこれじゃ、マッチは負けるかもな」

 国実はパソコン画面にライブ表示される局面図を動かして、チェスソフトの評価値を見ていた。

「ソフトでさえ、引き分けが御の字だってさ」

 国実の言葉に他の棋士たちは首を傾げた。

「それだって、このまま積極的な展開が続けられればだろ? どっかで最善手からは外れちまうさ」

「勝ち筋はなくても、マッチの総合点のために引き分け狙いで攻めるのか。チェス独特の戦略ってとこか」

 集まった男達の『客観的』な分析を聞きながら、岡部は頬杖をついた。

『やっぱこいつらとは違うか......。ただ純粋に応援してる俺はやっぱりアマチュアか......』

 岡部はこう思って、ため息をついた。



 ロシアンプレーの始祖の手堅さは目の前にすると想像以上だった。真田は序盤から果敢に攻めた。タクティクスを仕掛けようにも、すべてに守りの手順が用意されていた。あの手を考える......、ずっと先にカウンターを喰らう筋が見える。この手を考える......、抜け目なくこちらの攻め手を切らすカタチが用意されている。ヴィクトールの黒駒はすべて有機的に繋がっていた。真田は焦っていた。攻め続けなければならない! この積極的な姿勢を崩したら最期、ヴィクトールの駒達は目の色を変え豹変して、真田の白駒を喰い潰すだろう。真田は攻めることを強制されていた。相手に手順を強いること......、強制手順とは、攻めることではなかったのか? 真田は事前にヴィクトールの棋譜を研究してはいたが、こんなストラテジーは初めてだった。彼は攻めることを強要されている!

『ニキータとのタイトルマッチを終えてから......棋風が、変わったのか?』

 命綱なしの綱渡りを全速力で走り抜けるようなことを強要されている真田に余計なことを考える暇はない。

『攻めの......一本道。最善手だけを続けて......』

 それだけの離れ業をやってのけて、得られるものはドロー。命を拾うだけという果てしない徒労。

 真田は、一流のアスリートがそうであるように、いわゆるゾーンに入っていた。雑音は聞こえず、時間は水の中に沈んだように重く、目の前のチェス盤の上で駒は高速で動き回る。真田が指す。軽い一瞬の駒音が延々と引き延ばされる。ヴィクトールが指す。駒音が重く真田の耳に響く。彼の手に、真田の思い描いていた局面が、高速で走る新幹線の車窓の景色のように過ぎ去って、散っていく。

 真田は頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにかきむしった。唇をへの字に歪め、盤面を睨みつける。

『もっと速く! もっと広く! もっと深く!』


 盤上の駒は尽きようとしていた。ヴィクトールが顎鬚を撫でながら、鼻で大きく息を吐いた。

「ドローだ。真田君、受けてくれるね?」

「ええ」

 真田はヴィクトールのドローオファーを受け入れた。このタイミングでオファーが無ければ、真田が次の自分の手番でしようと考えていた。彼は頭を抱えたまま、右手を差し出して握手をした。

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