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真田智史 10 レストデイ

 チェスワールドカップは準決勝と決勝を残すのみとなった。ニキータ・コトフ(RUS)対アーロン・ガチンスキー(RUS)。サナダ・サトシ(USA)対ヴィクトール・ボルザコフスキー(RUS)。

 真田は準決勝を翌日に控え、レストデイ(対局のない休みの日)の昼をホテルの喫茶店で過ごしていた。ベスト4進出を決めた昨晩から、彼の携帯は鳴り止まなかった。アメリカの会社の同僚と、ニューヨークチェスクラブの仲間達からのメール。彼は日本の将棋関連の仲間にもこれを自慢気に伝えた。これがいけなかった。棋士か観戦記者からかはわからないが、真田の情報がメディアに漏れた。彼の電話には記者からの着信がおびただしかった。彼は電話の電源を切って、コーヒーを飲んでいた。

 明日、ヴィクトールとマッチを戦う。昨年まで、十年間も世界王者であり続けた男と戦う。かつて、ニキータが世界王者になった晩、バーでSGMのレオニード・ザハロフが言った。

「チェスだって。いくら酔っていても私は世界トップランカーのSGMですよ。ただのGMには泥酔してても負けないさ」

 モスクワチェススクールで囲碁をしながら、ヴィクトールが言った。

「ふむ......君と私がチェスを指したって仕方がないだろう」

『それがワールドカップの準決勝まできてしまうとは......』


 物思いに耽るのを終えると、彼は手持ち無沙汰に周囲を見回した。昼食を摂る者、昼食後のコーヒーを楽しむ者で席はいっぱいだった。ホテルのフロントからつながる喫茶店のドアが開いた。ニキータが一人であくびをかみ殺しながら入って来たのだった。

『あのコは単独行動を許されるようになったのか』

 真田の知る限り彼にはいつも父親か誰か世話人が一緒だったのだ。

 ニキータはスキニージーンズに黒いセーターを着ていた。首元からセーターの下に着ているワイシャツの白い襟が覗いている。ニキータはカウンターで注文し、食事をのせたトレイを受け取ると辺りを見回した。彼は明らかに座る席を探していた。店員は何も考えず注文を受けたが満席なのだ。

 真田は見かねて、手を挙げて彼に呼びかけた。

「ニキータ。こっちにおいで」

 ニキータはこれに応じて、真田の向かいに座った。

「グッモーニン。サンキュー、サトシ」

 と言って表情も変えずにココアを啜った。眠そうに半開きの目が彼の二重瞼を明瞭に見せた。寝起きのまま髪を梳かしていないせいか、彼の頬と首にかかる毛先が乱れていた。

「はは、グッモーニン。これが朝ごはんか。ニキータは夜行性なんだね」

「太陽なんかと行動を共にする方がどうかしてるんだ」

 その言葉がニキータの蒼白な肌を、より蒼白に見せる。ただでさえロンドンよりも曇り空の多いモスクワで、ニキータは太陽と仲違いしていた。彼はブリヌイ(ロシアの伝統的な朝食、薄いパンケーキでクレープ生地のようなもの)にイチゴジャムを塗りながら言った。

「その通りだ。ティーンネイジャーは夜行性の生き物だって大学で教わったよ。お父さんは? 今日は一人かい?」

「うん。大丈夫、お金はあるよ。飲食店の利用の仕方はこの前お父さんに習った」

 そう言って、ニキータは注文カウンターから持ってきたボトルからストロベリーソースをブリヌイに大量にかけた。彼はソースが皿から溢れそうなのに気付いてようやくかけるのを止めた。真田はつい眉を吊り上げてしまった。ニキータは半開きだった目を見開いて、赤いソースに浸ったブリヌイを慎重にフォークで突ついていた。ブリヌイを折りたたもうとするがうまくいかない。顔を皿に近づけると髪が目にかかった。その髪を指で耳にかける動作が少女のようだった。真田は男らしく、また大人らしく、そのコケットリーに感化されて、

「かしてごらん。俺がたたんであげよう」

 と言った。ニキータは口をとがらせて、前にゆっくりと皿を押した。

「食べちゃダメだよ」

 真田はフォークとナイフで生地を挟んで器用に畳んだ。ニキータがその手際を見る。彼の目尻と目頭から真紅の肉が光った。

「これで食べやすくなった。どうぞ」

「サンキュー」

 ニキータはソースに浸ったブリヌイを口に運ぶが、ブリヌイを食べているというよりは、ストロベリーソースをすすっているようだった。元々、血を啜ったように紅い小さな唇が、甘いソースで照り輝いた。

「ニキータ。一つ教えてほしいことがあるんだ」

 真田の言葉にニキータはモグモグしながら首を傾げた。

「君は最初......誰からチェスを習ったんだい? 覚えてるかな......君が幼い頃、僕達はモスクワの公園で会ったよね」

 真田はモスクワの公園で六、七歳のニキータとルイ・ロペスを並べたのを覚えていた。そして彼がロバートを指さして、妖精さんに教わったなどと言ったことも。

「覚えてる。あの時に言ったよ。僕はロバートにチェスを教わったんだ」

「ロバートに? 彼に会ったのはあの時が始めてだろう。 もしかしてテレビで彼の対局を見た?」

 ブリヌイに少しでも多くソースをつけようとするニキータの手が止まった。彼の目つきが変わった。温和な子供らしい目から、少女的な顔に似合わない青年の鋭い目に。

「テレビ? 僕はいつもロバートの隣で見てたんだ」

「隣?」

「もしかして自覚ないの? サトシも近くにいたでしょ?」

「ふふ。まさか......」

 全部ただの夢。夢の中での対局はチェスの才能によるただのコピー。いつまでもコピー出来なかったロバートとニキータ。それは真田自身が彼らより弱いから......そう考えていた。

「時々アクセスしてくるよね」

 ニキータが真田をじっと見て言った。

「アクセスって何のことだい? 俺はテレパシーなんか使えないよ」

「心理学者は......あの場所を『精神の宮殿』なんて言う。そして物理学者はアクセスを『量子のもつれ』って書いてた」

 真田はニキータの父が学術書の蔵書を大量に持っていることを思い出した。

「宮殿か......赤の広場の聖ワシリー大聖堂みたいなのを建築したいね」

 真田は話を逸らした。彼はオカルティックな話なんかしたくなかった。

『チェスという数理に......なんて不似合いな話題だ......。幽霊相手に将棋とチェスをやってみたいもんだ!』

 真田は目の前の美少年を見つめた。怠そうに遅い朝食を食べる彼は世界トップのアスリートには到底見えなかった。

「俺は明日......。ヴィクトールに勝つよ」

 ニキータは上目遣いで真田をチラと見た。

「そうだね」

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