真田智史 9 vsアレクサンドラ・カレーニナ
真田は着手し、チェスクロックのボタンを押した。軽いカシャっという音を期待したが、重く引き伸ばされた音が長いこと耳に反響した。体が重かった。まるで水の中で体を動かしているようだった。頭脳だけが相変わらず高速で明晰だった。彼はアレクサンドラの次の一手を考える。読み通りの既定路線を通るか、外して別の道へいくか......。別の道......。何通りだ? 既定路線外を三通り示して見る。それに対する応手をそれぞれ三通り、またそれに対するアレクサンドラの手を......。目の前のチェス盤の上を幽体のように透き通った駒が縦横無尽に走り回った。
真田の腕はようやく彼の顎の下に戻った。彼は頬杖を突いていた。彼はアレクサンドラを見た。動き出した。彼女はゆっくりと手を伸ばし、クイーンの頭をつかんだ。
『ナイトじゃない! クイーンだって?』
彼女は初期位置d8にいたクイーンをとなりに一つ、Qe8と指した。木製の駒が盤に置かれた、温かみのある音が鈍重に引き伸ばされて真田の耳朶を打った。そして、彼に透き通った駒が一通りの手順を走るのが見えた。
『トン、トン、トン、で終わりじゃないか』
瞬間、辺りが急に騒がしくなった。咳払い、服のシワつく音、駒を打つ音、チェスクロックを打つ音、スコアに棋譜を記録するボールペンの音、スコア用紙がめくれる音、どこかで選手が審判に何か小声で話している。すべての雑音がさざなみのように真田に押し寄せた。世界と時間が真田の認識に蘇った。
『今まで聞こえていなかったのか......』
インターネット中継で司会と実況をするロシア人GMの男性は、ゲスト解説のニキータ・コトフとヴィクトール・ボルザコフスキーと共に、あらゆる対局を画面上に回していた。
「アメリカ一位代表のブラックが苦戦してますね。第一局はなんとかドローを取って......というところでしょうかね?」と司会。
「うむ......。難しい所だね。こう指して......、相手がこの手順を見逃してくれれば、ドローに持ち込めるだろう。しかし、我らがタラスGMがこれを見逃すかね?」とヴィクトール。
「なあに見逃すさ。ミスタータラスももう爺さんさ。あ、ほら!」と司会。
タラスは優勢を取りこぼしてしまった。ヴィクトールが微笑した。
「後でうんとからかわないといけないな、これは。」
司会が次にコメントをつける対局を探した。
「ワオ。この対局があったじゃないか。我らが女王アレクサンドラとアメリカ二位代表サナダの」
司会が二人の対局をモニターに映した。
アレクサンドラのキャスリングに、真田がBd3と展開した局面だった。
「まだ互角か。この手順は......ビルツディフェンスだね。まだキャリアの浅い真田GMもモダン定跡にしっかりついていってるじゃないか」
とヴィクトールが言った。
ニキータも顔を上げて、興味あり気にモニターを見た。
「女王の調子はどうですかね?」
と司会。
「いつも通り今朝もミルクティーを飲んでいたよ......」
ここでアレクサンドラがBg4と指した。それに真田のピンを取っ払うh3、ビショップとナイトの交換。
「おっと、これはいけない。この交換は、展開を妨げることにはならない。彼女はミスをしたよ。しかし中央に回って、fファイルの攻撃を全部受け止めれば、エンドゲームに望みがないわけじゃない」
ヴィクトールは微笑して言った。
それから司会とヴィクトールはしばらくは様々な対局を映して解説していた。するとニキータが突然、
「終わったよ。あとはトン、トン、トンだ」
と彼の目の前のモニターにアレクサンドラと真田の対局を映して言った。
真田のBxd4にアレクサンドラは当然のexd4。そして真田のRf6!
青天の霹靂。彼女はこの挿入手を見逃していた。
『e5じゃない。ルーク......』
彼女は今朝のヴィクトールの言葉を思い出した。「彼をただのGMと思わないこと。ミスター真田智史とも思っちゃいけない......。彼をロバート・フリッツだと思うことだ......深淵なタクティクスに注意したまえ」
『ロバート・フリッツ......ねぇ。一度だけ、ヨーロッパ選手権で対局したことがあったわね。あいつ中盤から意味のわからない手順で私をメイトして、ろくに私の顔も見ないでさっさと席を立ったわ。この人は......サトシは私の顔を見てくれるかしら?......』
「投了よ」
アレクサンドラのリザインに、真田は顔を上げた。彼女は握手の手を差し出している。
「どうしたの? 早く私の手を握りなさい」
真田はアレクサンドラの顔を見た。口角は上がっていないが、穏やかな優しい目をしていた。対局前に見た。癖の作り笑顔とは似つかなかった。
「ありがとう」
真田はそう言って、彼女の手を強めに握った。
「さて、第二局よ。これで私が勝てばマッチはドローで試合継続」
アレクサンドラの表情はすぐにチェスプレーヤーの凛々しいものに戻った。
「ええ、よろしくお願いします」




