真田智史 8 vsアレクサンドラ・カレーニナ
真田は手順にビショップを展開した。
オープニングの原則に従いつつ、オープニングトラップの手順に対してタクティクス力で以て警戒した。
アレクサンドラは、
『定跡知らずとは言っても、このくらいなら着いて来れるのね』
と思った。
朝のヴィクトールの言葉が尾を引いていた。それにしても元世界王者はなぜ真田の棋譜をニューヨーク選手権まで遡って調べたのか? ふと、こんな疑問が彼女の頭に湧いた。元世界王者から見ればアメリカ2位とは言っても、真田はただの一介のGMに過ぎないはずだった。
『将棋指しのプロ候補だったのがそんなに評価できることかしら?』
アレクサンドラがチェスを始めたのは、彼女が小学校に入学したときだった。
裕福な家庭に生まれ、貴族趣味な父の方針で彼女は幼少から様々な知育教育と学校教育の先取りを家庭教師に施された。その中で彼女はチェスにその才能を発揮した。
貴族的な家庭らしく彼女はチェスの本格的な手習いを受けるために、モスクワチェススクールへ通うことになった。そこで彼女はすぐにヴィクトールと出会った。
小学校に入学したばかりのアレクサンドラは、スクールの広い講堂で三つか四つ年上の男の子を対局で追い詰めた。
「こいつズルした!」
男の子は立ち上がり叫んだ。講堂内の子供たちと講師たちの目が一斉にアレクサンドラに注がれた。
「ズルなんかしてない! あんたが弱いのよ!」
二人は立ち上がったまま睨み合った。
「私は覚えてる! 最初から全部!」
と彼女は言った。
そこを治めようと二人によって来たのが、まだ二十歳にならない十代のヴィクトールだった。
「君、覚えてるって?」
怒りと涙で目を赤くしたアレクサンドラは、若いくせに妙に落ち着き払った目の前の男を見上げた。涙で男の姿は滲んでいた。
「見せてくれるかい?」
そう言ってヴィクトールは男の子の隣に座り、盤面を初形に並べた。アレクサンドラは頷いて、手を指した。
「あんたがe4、私がe6!そしてd4にd5!」
彼女は涙声で最後まで並べた。涙で視界は滲んでいながらも、頭の中にあるチェス盤は明晰だった。男の子はチェス盤をひっくり返して走り去ってしまった。
ヴィクトールは男の子に目もくれなかった。彼は、
『フレンチディフェンスか......、子供の割に随分と堅実な指し方をするもんだ』
と考えていたのだ。
「素晴らしい対局だね」
ヴィクトールはぎこちない笑顔でアレクサンドラを慰めようとした。
アレクサンドラは涙を拭いて目の前の男を見た。彼女は彼を知っていた。十代で世界ランキングトップクラスに昇ったSGM、ヴィクトール・ボルザコフスキー。ロシア人チェスプレーヤーで彼を褒め称えない者はいなかった。
「ヴィクトールさん?」
「やあ、これは......僕は有名人だね」
ヴィクトールは視線を一瞬斜め上に逸らした。
「学ぶことの多い対局だったね。チェスで感情的になるのは良くない。彼のことを許してやりなさい。何か勘違いしたんだ。寛容さは大事だよ」
アレクサンドラが頷くと、ヴィクトールはさらに言葉を続けた。
「さて、この局面だが......(駒を並べ直して)、良い手順を見逃したね。考えてみよう」
ヴィクトールは子供相手に検討を始めた。さっきの喧嘩と盤面の手順を同列に扱っているのがアレクサンドラには面白かった。
アレクサンドラは女の子らしく、ヴィクトールを気に入った。この頃から彼女は知的でおだやかな年上の男性が好きになった。彼女は毎日スクールに通い詰めた。ヴィクトールが子供たちとアマチュアのいる講堂に姿を見せることは少なかったが、気分転換に彼が子供たちの対局を見にくるのを彼女は毎日心待ちにしていた。
アレクサンドラは十五歳でFMタイトルを得て、マスター専用の部屋に出入りが許されるようになるとヴィクトールと絡むようになった。彼女はそこでヴィクトールの指導を受けてIMに昇格し、女子チャンピオンになった。そして王座を防衛し続け、女性選手では異例のGMタイトルをも得た。彼女はいつもヴィクトールのそばに寄り付いて彼を見ていた。彼はいつも本を持ち歩き、講堂の隅など人気のない所でいつもそれを読んでいた。アレクサンドラは、きっとチェスの研究書に違いない、私もその本を買って勉強しようと思って彼を覗き見たが、それは囲碁の問題集だったので彼女は眉をしかめた。
その頃には既に世界チャンピオンとなっていたヴィクトールを見ていて、アレクサンドラは彼が他のSGMの選手達との交流をほとんど持たないことに気が付いた。研究会や検討には形式的に顔を出すが積極的に意見を言うでもなかった。そしてトップクラスのSGM達の棋譜に興味をも持たなかった。その代わり彼はいつもジュニア棋戦の棋譜をよく調べていた。
「私や、他のGMには興味ないくせに、ジュニアには随分関心があるようね?」
スクールのパソコンで棋譜データをあさるヴィクトールにアレクサンドラは言った。
「君の棋譜なら見たよ、ほら...この前のタイトル防衛戦のね...」
「それはあなたがテレビ番組で解説やってたからでしょ! お爺さんたちがぼやいてわ、あなたは他の選手に敬意を持ってないって」
「フフ......どうせタラスあたりだろう? 僕は模造品には興味ないんだ......それよりもこれをご覧。やっと見つけたんだ」
ヴィクトールがアレクサンドラに見せたのは、幼いロバート・フリッツの棋譜だった。序盤から激しく、攻撃的で、駒損を厭わない荒々しい攻め、のように見えて実は緻密な計算によるタクティカルな手順......。
「ロシアではなくアメリカから出てきたのは残念だったが......彼には是非とも成長してほしいね。僕は彼みたいなプレーヤーを待っていたんだよ」
ヴィクトールが真田の棋譜をわざわざ調べた。SGMの棋譜すら見ないあのヴィクトールが。アレクサンドラは唇を歪めた。
『ロバートはわかる。ヴィクトールは将来自分を脅かすタクティカルなプレーヤーを待ち望んでいた。そしてニキータ。あの子に関しては才能を見出して、自分からコーチを買って出た。真田に対しては? なぜ?』
この動揺がいけなかった。アレクサンドラはBg4と展開された白のナイトにピンを仕掛けた。真田は一瞬眉を吊り上げたが、h3と端ポーンを突きピンを取っ払いにかかった。
アレクサンドラはBxf3とナイトを取り、真田はQxf3とビショップを取り返した。
駒を取り合って、盤上のピースを減らすのは敵の攻めを緩和する常套手段である。しかしここでは、
『この交換は、展開を妨げることにはならない』
と、アレクサンドラにはヴィクトールが言っているように聞こえた。
『うるさい! わかってるわよ! ......感情的になっちゃいけないってこともね!』
お互いが展開を終えて、アレクサンドラが中央に手をかけた。
真田はfファイルからのキングサイドアタックを、アレクサンドラはセンタリングしたピースからのカウンターアタックを狙う局面になった。




