真田智史 7 vsアレクサンドラ・カレーニナ
翌日、二回戦の真田は既に対局席に着いていた。テーブルの数は半分程に減り、対局スペースが減った分、報道陣のスペースが広がってカメラがおびただしかった。
二回戦からはシードを持つ、世界ランキング上位の著名なGM達が登場する。真田の対局相手もロシアの高名なGMだった。
報道陣がにわかに湧き立った。真田の対局相手が姿を現したのだ。
長いブロンドをなびかせ、カメラのフラッシュを当然のように受け止める、高慢でイタズラな少女のような顔をした女性、アレクサンドラ・カレーニナだった。
アレクサンドラはテーブルをはさんで真田の前に立った。真田を見下ろして、
「一回戦くらいは勝つって信じてましたわ。この時が来るのが楽しみでしたのよ」
と言った。
「どうぞ、お掛けになって」
「失礼しますわ」
アレクサンドラは首を傾け、しなを作って座った。
「あなた痩せたわね。頬が少しこけたように見えるわ。それに目にくまが出来てるわ」
「ここ最近、たくさん勉強しましたから。そう、睡眠時間中もね」
「あら、それは恐いわね。初めての国際舞台はどうかしら? もう慣れたかしら?」
「ええ、対局前の軽口が楽しみになりましたよ。明日は誰のどんな話を聴けるんだか......」
真田の言葉にアレクサンドラは無理に口角を上げた。誰が見ても作り笑いの口である。彼女は真田の予告勝利宣言にイラついたのだ。真田はこれを見て、彼女はイラっとするとそういう顔をする癖があるんだなと、思った。
朝、アレクサンドラが競技場入りする前に、施設内の売店でミルクティーを買った時、ヴィクトールと偶然出くわした。
「やぁ、ミルクティー好きは...昔から変わらないね」
ヴィクトールはそう言って、ブラックコーヒーを買った。
「あら、今日も解説のお仕事かしら?」
「そうさ。私は三回戦からだからね。今日の君の対局......楽しみだね」
「真田さんのことかしら? 彼ならなんてことないわ。ただのGM。何の変哲もないGMじゃない」
「ふむ......対戦相手の......彼の棋譜は調べたのかい?」
「当たり前でしょ。昨日の一回戦と全米選手権のを見たわ」
アレクサンドラがツンとして言うと、ヴィクトールはいつもの調子でうつむいて、クックと笑いながら、
「おしいな。その前が必要だった」
と言った。
「前?」
「そう。全米選手権の時は......どうも本調子ではなかったようだ。読みの浅い手が多い。一回戦では相手に手応えがなくて、彼の実力が見えない......。ニューヨーク選手権のGM戦を見た方が良かった。きっと驚くだろう」
ヴィクトールはアレクサンドラにニコリと笑いかけた。
「どう......だって言うのよ?」
「同じロシア代表としてアドバイスをあげよう。彼をただのGMと思わないこと。ミスター真田智史とも思っちゃいけない......。彼をロバート・フリッツだと思うことだ」
「ロバート・フリッツ......」
「そう、ロバート。ただし、定跡を知らないロバートだ。深淵なタクティクスに注意したまえ」
アレクサンドラはテーブルを挟んで向かい合う真田を見た。ヴィクトールは彼のことを「定跡を知らないロバート・フリッツ」と評した。
ロバート・フリッツのチェス......とてつもなく深く正確な読みから繰り出される、難解なタクティクスによる攻撃。いつの間にか優勢な局面に持っていく鮮やかなポジショナルプレイ。既存の定跡を知り尽くした上で、それらを改良し定跡を塗り替えていく研究。
もっとも、世界のマスターが恐れていたのはロバートの卓越したタクティクスである。
『それを、この男は持っていると言うの?』
「そろそろ時間ですね」
真田が腕時計を見て言った。
「そうね」
果たして、審判からスタートの合図があった。二人は素早く握手を交わした。
第一局、真田が白番を持つ。
真田はe4と着手した。最もオーソドックスな初手。
対し、アレクサンドラはg6と指した。
『ポーンを突き合う形ではなく、低く構えるのか......、俺が不勉強なモダン定跡の何かにするつもりだな。ちっ、女とは言え、やはり世界ランカーのGMだぜ。対局相手の調査はしてやがるか』
真田はd4と指し、センターにポーンを二つ並べた。アレクサンドラは手順にBg7とビショップをフィアンケットして、間接的にセンターを狙った。
真田はセンターにポーンを三つ並べた。fファイルのポーンを進めた。キングサイドにキャスリングした場合の防御力は落ちるが、防御にまわることなくfファイルから攻めるという意思表示であった。




