真田智史 5
国実との対局から半年が経とうとしていた。真田はモスクワ市内のルージン・スタジアムにいた。ここは主にサッカーの試合に使われる国内最大の競技場であるが、今は上は屋根で閉じられ下は人工芝ではなくタイルが敷き詰められている。チェスワールドカップの会場となっていた。長机がいくつもの並べられ、机の上にはチェスセット、対局時計、スコア(棋譜の記録用紙)、そして選手達のネームプレートに代表する国の小さな国旗がおかれている。机上は見渡せばロシアのスラブ三色旗がおびただしかった。
個人戦故に各国の代表人数には枠がない。いくら一国の代表といっても弱ければ出場が許されない。実際ここに日本代表の姿などはなく、チェス帝国ロシアの代表が四分の一程を占めていた。そこに星条旗をはためかせるアメリカ代表が二人いた。ブラック・ハーモンと真田智史である。ロバート・フリッツのいない全米選手権で優勝したブラックと準優勝の真田がワールドカップ出場権を得たのだった。
「真田君、君の一回戦の相手はどうかね?」
ブラックが言った。ワールドカップはリーグ戦ではなく勝ち抜きトーナメントで行われる。二人は一回戦を前に会場の端のベンチに腰掛け、大会パンフレットを見ていた。
「ロシアのIMですね。私はGMなんで、勝てるでしょう」
「そうか、私は初戦からロシアのGMだよ。まったく......これじゃ国際大会というよりロシア国内の大会に招待されてる気分だ。ロバートがいない今、私がここでランキングを上げなければ、今年のキャンディデイト(世界タイトル挑戦者決定戦)はロシアに独占されてしまうぞまったく......あー、まったく......真田君も頑張ってくれよ」
「ええ、そのつもりです」
真田は大会組み合わせ表を見て、ニキータ・コトフの名前を探した。彼は上位入賞や、優勝若しくは準優勝者に与えられる世界タイトル挑戦者決定戦参加権を狙ってはいなかった。ただ、ニキータと当たればそれで良かった。真田は不幸にも反対のブロックにニキータの名前を見つけた。
『決勝までいかないとダメなのか。これは苦労するな』
同時に同ブロックにヴィクトール・ボルザコフスキーの名前があるのを見た。真田はため息をついてパンフレットを閉じた。顔を上げると、競技場にぞろぞろと選手達が集まって来たところだった。
真田が自分のネームプレートと星条旗が置いてある席に着いた時、対戦相手のロシアのIMはすでに席にいた。金髪の、目つきの悪い若者で、まだ十八歳程度かと思われた。真田が握手の手を差し出すと、相手はにこやかに応じた。
「あー、いきなりたった二人の宿敵アメリカ代表に当たるなんてね。僕は運が良いのか悪いのか」
「ロシア同士で当たるよりは良いでしょう」
金髪の青年は笑った。
審判達が選手達の横に着き、スコアに名前をサラサラと記した。真田の横に座った年老いた審判の男はしきりに腕時計を気にした。もうすぐ対局開始なのだ。会場は静かになった。ペンを机にカタっと置く音。床と椅子がこすれる音。男の咳払い。服の生地がシワつく音。緊張している者が多いのか真田は汗の臭いを感じた。
ワールドカップはお互いの白黒入れ替えて二局行う。引き分けで差がつかなければ持ち時間を短くしてもう二局、それでも差がつかなければさらに持ち時間を短くして......と行う。
真田はロシアのIM相手に白黒両局で勝利した。静かなエンドゲームはなかった。中盤からの真田の猛攻が一気にチェックメイトに到った。
ロシアのIMは顎に手あて、盤面を見つめていた。
「僕は何か、大きな見落としをしたでしょうか? 」
第一局、真田が白を持った。序盤から主導権を握り一気に攻め潰した。負けた青年は敗因を理解する間もなく第二局に挑まざるを得なかった。
『何か、どこかで僕が間違えた。どこだ? 』
白を持っても、わからないうちにキングが追い詰められていた。
負けた青年の言葉に真田は、
「ここからタクティクスが決まりました」
と、駒を動かしながら答えた。
「ここから...... 」
青年は首をかしげ、微笑した。
「これがアメリカ二位のGM。ロバート・フリッツはいないと言うのに...... 。いや、なぜあなたではなくブラック・ハーモンが一位なのかが疑問ですよ。ブラックの指し手は理解できるが、ミスターサナダ、あなたの指し手は理解できない」
青年は握手の手を差し出した。真田はそれに応えて言った。
「全米選手権の時、体調を崩してたもんでね」




