真田智史 4 vs国実竜王
国実は初手にもっともポピュラーな、角道を開ける手を指した。続いて、真田も同じく角道を開ける手。駒に触れた瞬間、指から汗が吹き出し、震え、危うく弾き飛ばすところであった。国実はそれを見て片方の眉をつり上げた。
『これだけ時間を置いて、チェスにも興じているというのに......』
国実は真田がチェスすら捨てかけているということを知らない。
初手を指して、真田は体が示した反応とは別に、冷たく思考をめぐらせることができた。指をこすり合わせ、にじんだ汗を確かめた。
『こんなものか。体は正直ってやつか...情けないな』
と自嘲した。
『しかし......頭は動く。指せる』
対局は定跡通りには進行しなかった。意外にも国実の方から早々に定跡を外した力勝負の形に持ち込んだ。
『竜王様は随分と寛大なことで!』
真田は、国実が真田の知らない新研究の局面に持ち込んでさっさと対局を終わらせてくれることをちょっとばかり期待していた。
大きなガラス窓は夕暮れではなく真っ暗な夜を映し、街の光を窓の底にぼやかしていた。真田は窓の前に立ち、闇を背負って鏡になったガラスに写る自分を見つめていた。
『雪でも降ってくれないかな』
真田は綺麗な景色が見たいと思うほどロマネスクに酔っていたが、冷徹に
『東京の雪とニューヨークの雪はどちらが汚染物質を多く含んでいるだろうか』
とも考えていた。
国実はまだ将棋盤上の終局を見ている。
「将棋を辞めて、将棋が強くなるやつがあるか」
国実は笑いながら言った。
対局自体は先手国実竜王の勝ちだったが、それはプロのタイトルホルダーと元奨三段のアマチュアの対局とは思えないほどに形勢は肉薄していた。国実は一手に満たない半手の差で勝ったのだ。
国実がもし序盤に最新戦法でも使えば、真田の古い将棋などは簡単に押さえ込むことができた。そうしなかったのは定跡に頼らない力勝負をしたかったからだ。
『真田の奴、中盤に入ってからは悪い手が一手もなかった。序盤の差だけでなんとか勝ったようなもんだ。コンピューターソフトでも相手にしてるみたいだった』
「お前、アマチュアの大会の枠からプロ試験でも目指したらどうだ?」
国実が言った。
「勘弁して下さいよ。この短い一局でもう疲労困憊です。将棋は疲れる......」
真田は窓の外を見たままだった。雪が降ってきた。
「師匠にも良い将棋を見せられた。数年振りにしては良かったでしょう?」
「そうだな。面白かった。私は満足したぞ。やっぱりお前は将棋指しだ」
山川が力なく笑って言った。
「これからも記者として生きていくのか?」
国実が言った。
「そうです。俺はもう会社のサラリーマンなんです」
真田はそう答えた。これは本音であり、事実だったが心中で、
『一つだけ......やるべきことがある』
と呟いた。
一流のアスリートがゾーンに入るように、F1レーサーがトップスピードで神を見たと言うように、今宵、真田は思考と集中の限界を超えて将棋に潜った。
指し始めこそ鈍かった思考はマニュアル車の変速ギアを上げていくように徐々に加速した。中盤以降はまさにオーバートップ、無駄な読み手は無意識に排され直線的にどこまでもどこまでも手が見えてくる。膨大な局面が新幹線から見る外の景色のように過ぎ去っていった。今までに感じたことのないスピードで思考に潜りながら真田が『このまま深く深く潜ってもう戻れなくなるのでは』とゾッとした一瞬、影が見えた。長いまつ毛に縁取られた大きな切れ長の目に、宝石のような真紅の唇......ニキータだった。
かつてニキータは言った。
「どっちが僕の相手になるのかな? 楽しみだね」
そのやわらかな可愛らしい口調にまとわりつく美しい魅惑的な毒素! スコアに滴る血!
『俺かもしれない。ずっとロバートだと思ってた。ロバートこそがライバルとして唯一の理解者として、ニキータのチェスに立ち向かうんだと。しかし、それがロバートではないとしたら ! 俺にはやるべきことがある...... 』




