真田智史 3
引退セレモニーは様々に常套句と社交辞令を散らして終わった。一部の棋士達が詰将棋を解いていたり、ポータブルの将棋盤を持ち込んで感想戦の続きをする者を除いては。真田は国実が感想戦に飛び入り参加していたのを見た。
会場から人が捌けると、真田は、山川九段の部屋へ来るようにとの伝言を岡部から聞いた。
ホテル最上階の最も大きな部屋。真田がそこに入ると国実と山川の二人がいた。異様だったのは、部屋がまるでタイトル戦でも行われるかのように設えてあったことだ。
外に向かった大きなガラス戸は夕空を鮮明に映し、その景色を背に山川が座椅子に腰掛けていた。山川の前には将棋台とその両端に座布団が敷かれていた。
「やっと来たか」
国実がそういってバスルームから用を足して出てきた。
「どういうつもりですか? 」
真田が将棋台と国実を交互に見やって言った。師匠の方には目をやらなかった。
国実はスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくった。
「わかれよ。師匠に最後に見せてやるんだよ。奉納対局ってやつだ。お前も顔洗って、スッキリしてから座れ」
そう言って、国実は将棋台に向かって座った。真田は何も言わずにバスルームへ入った。鏡に写る自分。突然捨てたはずの将棋を強要される自分。どういう表情を写すのだろうか。
真田は鏡を見た。何も見えなかった。
『国実のやつ、事前に言ってくれれば、それなりの心構えも出来たというのに...「酒は飲むな」それだけで伝えた気になってやがったな』
心の内で先輩に毒を吐いた。元々、将棋だけに生きてきた人間に対し、マトモなコミュニケーションを求める方が間違っているかもしれない。
真田はバスルームから出た。国実が既に将棋台の前に正座していた。山川九段がにこやかに、
「さとし、お前も座れ」
と言って、真田を促した。
将棋盤を前にするのはいつぶりだろうか?
真田は自分から避けていたくせに、今になってなぜ将棋を遠ざけていたかと、理由がはっきりしているのに疑問に思った。それほど、真田は自然に将棋盤の前に座らされてしまった。
「これが最後でもいい。俺と山川師匠に見せてくれ。お前の将棋を」
国実が言った。
「わかりました。ただ......期待はしないで下さい。本当に、あれからずっと将棋には触れていません」
真田は眉間にしわを寄せ、唇を噛んだ。
二人は駒を並べた。久しぶりに指吸い付く、平たい木製の駒の感触を味わった。
「持ち時間は30分。切れたら1手30秒でいいな」
国実はそう言って対局時計をセットし、振り駒をした。
「すまんな。俺が先手だ」
これがあの頃の、将棋に情熱をかけていた頃の真田だったならば、頭の中は戦法選択と新研究でフル回転していただろう。しかし、今は何も考えられなかった。
『どうでもいい。どうせわからない。この数年でまた戦法は進化を遂げていることだろう。俺は何も知らない』
しかも相手はその最先端を走る現竜王タイトルを持つA級棋士である。
『恥ずかしくない程度に指そう』
彼はそれしか考えられなかった。




