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真田智史 1

 ニキータが世界チャンピオンになった夜。レオニードと酒場でビリヤードをした夜。真田は一通のメールを受信した。岡部からだった。


『件名:山川九段引退

 本文:

 西洋かぶれのサトシくんに日本のニュースを教えてやる。俺達の師匠である山川先生が棋士を引退することになった。正月明けに連盟主催で引退式が開かれる。

 国実(くにざね)さんから、山川門下は全員集まるようにとのこと。』


 真田は年末休暇の後に追加の休暇を会社に申請したが、会社側のはからいで山川先生の引退式に参加するなら出張取材扱いになった。


 真田の(やす)アパートの部屋は本で散乱していた。和英辞典に英英辞典を筆頭に数十冊の英語の参考書。そして去年から買い込み始めたロシア語の参考書。本棚に入りきらず、床に山脈を築く三百冊を越えるチェス書籍はホコリをかぶっていた。

 挑戦者決定戦でロバートが負けて、失踪してからというもの、真田はチェスに触れようとしなかった。

 真田にとってチェスとは?

 まず、将棋は青春と情熱の鏡であった。彼のカラダは頭は、知性と理性は将棋によって構成されている。しかし、彼自身を写し出すその鏡はくもり、錆びつき、彼を明瞭には映さない。ボヤけた暗い影だけが残っていた。

 そして、チェスとは将棋の代用品に過ぎなかった。結果として彼はGM(グランドマスター)になったものの、それは彼の才能が惰性的に導いただけであって、そこに情熱はなかった。ロバートに出会っていなければ、彼はチェスを続けてはいなかったろう。ロバート・フリッツという光。目を覆いたくなるほどの眩しい圧倒的な才能。彼の影を照らし出し傷口を白く隠してしまうほどの輝き。真田はこの光にすがっていたとも言える。

 そのロバートはもういない。


 真田はニューヨークから東京へと発った。

 引退式典前に、真田は千駄ヶ谷近くのバーで岡部と国実の3人で集まった。

「国実さんに何か言うことはないのか? 」

 丸テーブルに着くなり、岡部が真田に言った。

「は? 何をだよ」

「やっぱり知らないのか。国実さんはな、もう国実棋王じゃないんだよ」

「奪われたのか」

 ここで国実がニヤけながら、

「これからしばらくは、国実竜王と呼べ」

 と言った。

 国実は棋王タイトルこそ、挑戦者として勝ち上がってきた名人に奪われたものの、竜王戦では勢いのままにタイトルを奪取することが出来た。順位戦もA級に上がり、名実共に超一流の棋士となっていた。

「チェスで言えば、世界チャンピオンだぞ。俺は凄いんだぞ」

 まだ注文した酒は来てもいないのに、酔ったように国実が言った。真田と岡部が冷めた顔で柏手を打った。それから、これまでのアメリカでの生活や、ロシアのチェス棋士達のことを話した。しかしロバートの失踪については触れなかった。ややあって、国実が口を開いた。

「真田。引退セレモニーの日は酒を飲むな」

「そうですか。あとで師匠と挨拶でも? 」

「そんな所だ......その日は、俺も飲めない」

 国実はクリスマスを待つ子供のような、これから来る楽しみを待つような顔をして笑って言った。

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