「悪魔」ニキータ 3
新チャンピオン誕生に湧く会場を後に、真田はサンクトペテルブルクの街をさまよっていた。ニキータは今どうしているだろうか。恒例の祝勝会で様々に言葉を掛けられているのか、ニキータはどんな表情で受け取るのだろう。
『ニキータ......いや、ロバートはどうしているだろう』
真田の目に小洒落た酒場が映った。
そこは、バーにビリヤードやダーツ遊戯場が併設されている。真田は、アメリカとロシアの安い酒場で嫌な思いをしたことがあり、程度の低い店には入るまいと決めていた。
店に入ると、そこは真田好みの空間であった。
カウンターテーブルに向かう人々はみなり良く、高価なスーツを着、静かに談笑しながら酒を酌み交わしていた。ビリヤード場では、ロシア軍服を着た上官と思われる中年軍人が、若い軍人たちにキューの突き方を指導していた。
彼らは店に入った真田をチラと見たが、表情を変えることはなかった。これが安い、程度の低い酒場なら、露骨に嫌な顔をされ、「酒が不味くなるからイエローは出て行け!」などと罵られる所である。
真田はカウンター席に座り、アルコールの軽いカクテルなどを注文した。そこで真田は後ろから、スーツ姿の男に肩を叩かれた。振り返ると、見覚えのある若い男、レオニード・ザハロフだった。
「あなた、ロバートのセコンドをしていた日本人ですよね? 」
レオニードはタバコ臭かった。真田は辺りを見回すと、窓辺の丸テーブルでタバコを吸っているアーロンが見えた。アーロンとレオニードは2人で来ているらしい。
「違いますよ」
真田は他人と関わりたくなかったので、否定した。
「はは! やっぱりそうだ。日本人GMのサナダだ」
ロシアでは、酒の席で否定することは肯定の意味として取られるらしい。レオニードは酒のおかげで上機嫌だった。レオニードは真田の隣に腰をおろし、
「あいつは......ロバートはタイトルマッチに関して何か言ってました? 」
「何も」
「ほほーう、それは気になる。ところで、ロバートは挑戦者決定戦以降、世界中のどの大会にも出てないようだが、彼は何をしてるんです? 」
「知らないよ」
「なるほど、これから詳しく聞かせてください。で、彼はどこにいるんでしょうか? 」
真田は、レオニードのスーツの襟を掴み上げ、静かに、
「知らないって言ってるだろ」
と、レオニードに顔がぶつかるほどに間を詰めた。
襟を掴む拳には力がこもっていた。
それまでニヤついていたレオニードは表情を整え、
「すまない。ロシア式を押し付け過ぎたようだ」
と言って、襟を掴む真田の腕に軽く手を添えた。真田は襟から手をはなし、レオニードから体を逸らした。
「構わない。俺はどうせ一杯で帰るんだ」
真田は、「許す」とは言わなかった。
「じゃぁ、お詫びに奢らせてください」
「いらない」
「ミスターサナダ! あなたは、私の非礼を許すことなく、罪悪感を植え付けたままにしておく気ですか! それは許されません」
酔っているせいか、彼のパーソナリティが元々そうなのか、レオニードは面倒な男だった。真田は窓辺でタバコを吸うアーロンを見たが、彼は「我関せず」と全身で語り、外の道行く人々を眺めていた。
「ミスターサナダ、ひとつ勝負をしましょう」
レオニードは立ち上がった。彼は真田の袖を引っ張るので、真田は仕方なくレオニードに従った。
カウンターを横切り、ビリヤードに興じる軍人たちをかき分け、空いているビリヤード台に手を置いた。
「ビリヤードです。これで私が勝ったら、お詫びを受け入れてもらえますね? 」
「チェスじゃないんですね」
「チェスだって。いくら酔っていても私は世界トップランカーのSGMですよ。ただのGMには泥酔してても負けないさ」
そう言うレオニードは球を打つキューを真田に渡した。
「おっと、ミスターサナダ。私はもう何杯も飲んで酔っている。勝負はフェアでなければならない」
レオニードは店員に「ウォトカ! 」と声をかけた。すぐにグラスに入ったウオッカが用意された。真田が注文したカクテルはまだ出てこないクセに、ウオッカはすぐに出てくるようだ。
「さぁ飲んで。それでフェアです」
口が止まらないレオニードを軽く睨みつつ、真田はウオッカを飲み切った。
渇いた体に強いアルコールを流し込んだ。真田はビリヤード台に手を置き、両目を固く閉じた。足が床から浮いているように感じた。足は店の床をしっかりと踏んでいる。浮いてるのは足ではなく脳だった。頭ひとつ分、脳が高い位置に浮き、全身の神経がそれに引っ張られていた。
だから真田は酒が嫌いだった。




