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「悪魔」ニキータ 2

 薄暗いホールの中、1段高いステージの上でスポットライトに当てられ、テーブルに向かい合う2人がいた。世界チャンピオン、ヴィクトール・ボルザコフスキーと、挑戦者のニキータ・コトフである。ヴィクトールはテーブルに両肘を立てて頭を抱えている。対するニキータはいつも通りだ。チェアにふんぞり返りキャンディーを舐めている。世界チャンピオンが何分も、何十分も考えて手を指そうが、ニキータは秒もおかずに手を返す。


 このシーズンのタイトルマッチは大方の予想に反した戦型になった。堅実で守備的なロシアンプレーの祖であるチャンピオン、ヴィクトール。序盤から常に最短最速の手順で相手を殺しにかかるニキータ。ニキータが攻め切るか、ロシアンプレーの始祖が受け切るか、という前評判であった。しかしヴィクトールはロシアンプレーを採用しなかった。白番では序盤から攻め、黒番では常にカウンターを狙っていた。

「私だって......タイトル防衛戦に臨むにあたり、何もしていなかった訳ではない。そもそも、ロシアンプレーは、チェスにおいて......決して最善手では......真理の1手ではない。ロシアンプレーなんかじゃ......ニキータには勝てない......いや、引き分けすら取れない」

 ヴィクトールはインタビューに対してこう答えている。(おおやけ)には知られていないが、ヴィクトールが自ら買って出たニキータのコーチングにおいて、彼は指導対局と言いながらも何度か本気で対局している。始めこそはヴィクトールに分があったものの、年月を経、ニキータがモスクワチェススクールの蔵書の半分を消化した頃、そう、ニキータがロバートと初手合をして引き分けた頃から、彼はニキータに勝てなくなった。ニキータはその時すでに世界チャンピオンを超えていた。それから2年でニキータはスクールの何千冊もの蔵書をすべて読み切り、チェスにおける技術的な歴史、古典(クラシック)理論から現代(モダン)、そして超現代(ハイパーモダン)の全てを吸収した。

『ニキータと対等に対局するには......歴史を変える1手が必要だ』

 5戦終えた時点で0勝5敗のヴィクトールはこう語った。


 6戦目にあたる今、頭を抱えるヴィクトールは悩んでいるのではない。申し訳なくおもっているのだ。かつて自分が味わった「頂点の孤独」。それを、今度はニキータに味わわせることになってしまった。ヴィクトールは手をテーブルに置き、呟いた。

「ニキータ、君を孤独にさせてしまったようだ。私はもう君のチェスの理解者にはなれない」

 ヴィクトールは投了した。記者達のカメラフラッシュを浴びながら、ニキータは一瞬寂しそうな顔を見せた。

「僕はいつか、チェスを捨てるかもしれない」

 このニキータの囁きは会場のどよめきにかき消され、誰にも聞こえなかった。


 ポイントは0-6となった。マッチは6,5ポイント先取で勝ちとなるが、ヴィクトールは対局後、マッチそのものを投了し、最年少の世界チャンピオンが誕生した。


 記者たちは身を乗りだし、2人に詰め寄るが、会場の隅で()めた態度で手帳に筆を走らせる記者がいた。真田智史である。


 真田は、この最年少世界チャンピオン誕生という歴史的出来事を無感動で受け入れていた。こうなることは挑戦者決定戦が終わった頃にはわかっていたことだ。決定戦以来、真田は将棋だけでなく、チェスに対する熱をも失っていた。というのも、彼のチェスは常にロバートと共にあった。そのロバートが姿を消したのだ。決定戦からタイトル戦までの数ヶ月、ロバートは世界のどの大会にも出場していない。それどころか、連絡さえ取れないのだ。彼にとってチェスは、元将棋指しの手慰(てなぐさ)み以上に、ロバートとの交流手段だったのかもしれない。理解されない孤独な天才と非言語で語り合えるツールであった。そのロバートがもういないのだから、チェスももう必要ではなくなった。ただの取材対象だ。


 両対局者を囲む群衆の隙間から、ニキータの目が覗いた。その目はいつか見た......破片の海に膝を落とした真田を見つめた、あの目だ。

『俺には何もできないさ。俺は君や、ロバートとは違う......GM(グランドマスター)で満足な男なんだ』

 真田はニキータの目を振り切り、会場を出た。

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