世界タイトルマッチ挑戦者決定戦 14
挑戦者決定戦も終わりが近い。
ロバートに完敗したアーロンは続き、ニキータにも敗れた。ニキータを相手にした2日間、彼は対局中も、控室でも、「こんなはずじゃない」とずっとうわごとのように呟いていた。
敗れ、彼の挑戦者決定はなくなった。
すべてはこのマッチで決まる。
全勝のニキータ・コトフ。1つの引き分け以外はすべて白星のロバート・フリッツ。12歳のロシア人少年と、20歳のアメリカ人青年が世界チャンピオンへの挑戦権を懸けて戦うのだ。
明日はロバート対ニキータの第1戦と2戦が行われる。真田はロバートの体調を心配していた。アーロンは確かに世界トップの一流棋士であるが、実力ではロバートがそれほど苦戦する相手だとは思えなかった。ロバートは世界チャンピオンのヴィクトールにさえ、互角以上の戦績を残している。この大会でのニキータのパフォーマンスが、相手の研究不足や、油断ではなく、本当に彼の実力であるならば......明日から行われる4局は、チェスの歴史上最強のプレイヤーを決める1戦といえるかもしれない。
ホテルで記事とコラムの執筆に区切りをつけた真田は、明日に備えて早めに寝ることにした。そこで彼は久しぶりに夢を見た。
往来の人いきれが激しい。真田は街の通りいた。風景は明るく、雑踏は夢らしく淡く滲んでいる。道の脇には陶器でできた造形作品が並んでいた。犬や猫など動物をかたどったもの、開かれた本や椅子など生活用品、様々なものが白くつややかな肌を輝かせていた。道の真ん中にひと際大きな作品があった。大理石の土台に乗せられた大きな球体である。陶器性の球体は、ひとつの建築物かと思うほどに大きく、通り塞ぐように置かれていた。その球体を愛おしく眺める1人の少女を見た。いや、少年だ。それはニキータだった。
通りを人がせわしなく踏みならすたびに球体は、土台の上でぐらぐらと揺れた。どうやらこの大きな球体は何物にも支えられてないらしい。固定されずに土台の上にただ置かれているだけだった。球体がぐらつくたびに、真田は胸が苦しくなった。
『落ちてしまったら、一体どうなる』
そう思った時、通りに黒い一団が進入してきた。黒いスーツに、黒いコート、みな黒い山高帽を深くかぶり顔を隠している。その一団はわざとらしいほどに足を高く上げて、一歩一歩力いっぱいに地面を踏みならした。ニキータはその一団には目もくれない。球体の揺れ幅が大きくなった。
『あ、危ない』
球体は土台からはずれ、地面に落ちて粉々に砕けた。飛び散った破片が真田に降り注いだ。真田は球体の落下点に駆け寄り、膝をついて破片を拾い集めようとした。
『ニキータは? 破片で怪我をしてはいないか? 』
ニキータは怪我などはしていなかった。ただ、破片を集める真田をじっと見つめていた。まつ毛に縁どられ、多くの光を湛えるニキータの目は冷たく、涙を浮かべているようにも見えた。
『そんな目で見るな。俺にどうしろというのだ。この破片を......どうしろと......』
目が覚めた真田は、柄にもなく夢に意味をつけてみようとした。どうしても不吉な未来を暗示するものとしか思えなかった。揺さぶられ、揺さぶられ、輝く陶器の球体はニキータの目の前で砕けた。雨が窓を打つ音が聞こえた。ベッドから起き上がり、窓から外を見ると通りのコンクリートは濡れて真っ黒に染まっている。
『いやな夢に、いやな天気だ』
会場に着いた真田は、いつものようにロバートに差し入れをした。会場は多くの報道陣で込み合っている。舞台に上がるニキータは、ハッカのように涼しげで、嬉しそうな顔をしていた。お気に入りのロバートとやっと対局ができるのだ。そう考えると、これから久しぶりに恋人の男に抱かれる遠距離恋愛中の女の顔にも見えた。
対してロバートはどうだろう。重い砂袋を体中にくくりつけられた囚人のようである。歩みの一歩一歩が重たく、眼光は鋭い。観衆は、ロバートが倒れるか、暴れるかのどちらかに転ぶ気がした。
舞台上で、ロバートとニキータが向かい合った。第1局、ニキータが白を持つ。ニキータはわざとロバートに見えるように、自分のスコア(対局の棋譜を記録する用紙)の上でペンでカラ書きした。そのペン先はd4と空を切っていた。
「見せたいものがあるんだ」
ニキータは用紙の上で延々とカラ書きし続けながら、ロバートに話しかけた。
「今日はなんだか、夢見も悪いし。天気も悪いし。良い結果にはならない気がするけど......我慢できないよ。さらけ出したいんだ。君ならついてこれるよね? 」
ロバートはテーブルの横に置いてあるペットボトルを掴み、水を飲み、
「好きにしろ」
と、小さな声で答えた。




