世界タイトルマッチ挑戦者決定戦 13
アーロンがロバートと第3・4局を迎える日、アーロンは控室で1人煙草を吸っていた。そこにレオニードが現れた。彼は既に「共謀」からは手を引いているので、アーロンの控室に入って来たのは意外なことだった。
「失礼しますよ。ロバートには勝てそうですか? 」
レオニードが言った。
「今さらなんだ。嫌味でも言いにきたのか? 」
「違いますよ。少年時代に憧れた一流棋士の1人を応援する気持ちは本当です。凌ぎを競う相手でありながらも、同じロシアの同志だ。挑戦者にはあなたかニキータがなれればいいと思ってますよ。僕はもう勝ち星が足りない」
決定戦の直前はロバート、アーロン、次いで若手のレオニードが挑戦者候補として注目を集めていたが、今や連戦連勝のニキータが選手間でもメディアでも注目を集めていた。
アーロンは吸っていた煙草を灰皿に置いて、懐から新たに煙草を1本取り出した。それに火を着けたところで、レオニードは意地悪に笑った。
「灰皿においた煙草。まだ吸えるんじゃないですか? 」
灰皿に置かれた煙草はまだ捨てるには長く、火が着いたままだった。アーロンがそれに気づいた時、彼は動揺を隠せず、指が一瞬震えた。彼はたった今火を着けた煙草も灰皿に押し付けて火を消した。
「さっさと自分の部屋に戻れ。対局前の棋士にあれこれ言うのはマナー違反だぞ」
アーロンが言った。
ロバート潰しなどという「共謀」を計画し、実行中の男がマナーを語るのは滑稽であったが、レオニードは表情を変えず、
「応援してますよ」
とひと言だけ残して控室を出た。煙草の煙と臭いが彼にまとわりついてきたが、自分につきまとう悪いものを取り除くように強く手で払った。
試合開始の時間になり、会場に入った選手たちはいつものように、観衆の間を歩いて舞台まで向かう。まばらになりつつあった観客も、世界ランキング2位のアーロンと3位のロバートの対局を目当てに満員である。そして、ランキング外の枠から参加権を得たニキータの、超人的な活躍を目当てに記者の数も大会初日並に戻った。
大会でトップを走る3人。アーロンは観客を閉口させるほどの煙草臭を撒き散らし、何かの感情を溜めているのか、目の下がヒクヒクと痙攣している。
ロバートを見た観客は「彼はこんなに痩せていただろうか? 」と訝った。元々、彼の頬肉は薄かったが、今や骨に皮一枚貼り付けたようだ。それでも彼の目には熱が残っていた。
「ロバート対アーロンの対局ですべてが決まる」
誰もがそう思ったが、今やそうではない。12歳の少年が、歴戦の強豪を指先で華麗に捻り潰し、時代の寵児になろうとしている。アメリカの天才ロバートに対抗するかのように現れた新たな才能。若く、幼く、ようやく青みがかったばかりの異能。何よりも、ニキータは美しかった。
「彼が挑戦者になってくれれば......」
表面の肉にこだわるメディアの者たちの下心は、その視線から透けていた。
当のニキータは浮かない顔をしている。退屈なのだ。
彼にとってチェスとは1つの数学的問題に過ぎない。シンメトリーの崩壊から始まる小宇宙の終息の道を証明するのだ。そこに現れる「美」こそ、チェスの魅力である。しかし、チェスは1人では描けない。ニキータは共に宇宙を描き、証明を完遂できる相棒を欠いていた。ニキータ自身はその相棒をロバートだと睨んでいる。
選手全員が席に着いた。ニキータは相変わらず椅子にふんぞり返り、相手の顔を見ようとはしない。こういう振る舞いがために、
『アレクサンドラを超える女王様』
などとメディアに書かれるのだ。
対局開始の合図と共に、選手たちは形式ばかりの握手をこなす。
ロバートはアーロンに鋭い目を向ける。そして、ニキータの初手はいつもキャンディーだった。
ニキータの勢いは止まらない。この日も連勝で終えた。ロバートも疲労と、相手がアーロンであることに苦戦はしたものの連勝した。
アーロンはこの結果に荒れた。もう自力での挑戦者決定はなくなったのだ。




