世界タイトルマッチ挑戦者決定戦 11
駒がぶつかり中央の戦力は清算され、クイーンだけが戦場に立ち尽くしている。レオニードはこの局面までいけば白に負けはないと考えている。ロバートの超人的な読みの力も、事前の超研究には敵わないのだ。
そう思った。
この時点ですでに対局開始から1時間半が経過していた。ニキータなどは8連勝を決め、舞台を降りていた。
記者席にいた真田も席を立ち会場を出た。彼が味方するロバートの素晴らしい1局を見ずに会場をあとにしたのは、もう心配する必要がなくなったからだ。ファンならば、ロバートとレオニード両者の持ち味を存分に出し合うこの1局を見逃すまい。彼はすでに親のような心境なのだ。
『こうなれば、ロバートは誰にも負けない。もう安心だ』
ロバート自身は対等な友情を求めているのだが......。
外に出ると、まだ夕方の時間帯だと言うのに夜のように薄暗い。街灯は早くも明かりを頭に輝かせアスファルトを黄色く照らし、自動車はその光をボディに流して去って行く。涼しい風を顔に受け、辺りを見回すと噴水が現れた。もうこの会場に出入りして4日にもなるのに、初めてその存在に気が付いた。
噴水は白い石で造られている。その凹凸にどこから現れたかもわからない錆を引っ掛けて、水を暗赤色に染めている。噴水を囲むベンチのひとつにニキータ親子が座っていた。
ニキータはベンチに体育座りをして、両腿でスケッチブックを支えている。光をやわらかく受け止める白い肌に、黒い艶を輝かせる髪が揺れていた。長い睫毛の奥の瞳に少しの熱が見えた。熱は噴水とスケッチブックに対象を向けている。女がそうであるように、夜は官能的な美を際立たせるが、ニキータもこの夜に映えていた。横に座っている父セルゲイはニキータを守る護衛の騎士のように見える。
真田は親子の近くに歩いた。セルゲイが真田に気が付き、お互いに軽い挨拶を済ませた。チェススクールの他に真田は取材で何度かセルゲイと会っている。
「ニキータ、何を書いてるんだい? 」
真田が言った。ニキータは噴水を見ながらスケッチブックに何やら描いているが、それは数式だった。数学は門外漢であるが、優秀な大学を出ている真田に、それが関数であることはわかった。
「噴水だよ」
ニキータが言った。
「もしかして、その関数をグラフにすると噴水になるのかい? 」
真田がこう言うと、ニキータは勢いよく振り返り、
「見えるの? 」
と言った。目が大きく開かれている。
「いや、ちゃんと描いてみないとね...... 」
「そう...... 」
会場の舞台上ではレオニードが頭を抱えていた。ロバートのナイトを動かした手が見事なコンビネーションアタックを決めていたのだ。レオニードは事前に研究をして優勢を築く手順を知っていた。しかし、ロバートの読みは彼の事前研究のさらに先まで瞬時に見通していた。
「そう言えば、ニキータは数学も好きだったね。お父さんと一緒だ」
真田の言葉にセルゲイは少し笑みを見せた。
「数学とチェスはどっちが楽しいかな? 」
ニキータはペンを止めた。
「わからない。僕はいつも人の跡をなぞって......眺めて......それだけだから。独創性を見せてくれる人がいるなら、チェスかもしれない。けれど、最近はつまらない」
「つまらない?」
「僕のチェスは過去の焼き直しでしかない。序盤、中盤、終盤それらの公式をただ結びつけてるだけ......それだけなのに......みんな、僕に頭を垂れるんだ」
ニキータは退屈そうに語った。
「このお喋りは記事にしちゃいけないよ」
セルゲイが言った。
「ええ、わかりました」
「リザイン」
レオニードが投了した。
研究は読みに敗北したのだ。
レオニードは自分のチェス人生を円錐に例えた。かつてはその頂点に帝国の悪事が戴いたが、それを投げ捨て頂点をアメリカの天才青年に突き付けた。しかし、見事にその頂点は折られた。
ロバートは立ち上がり、握手の手を差し出した。
「良い対局だった。ロシアにもあんたみたいなプレーヤーがいるんだな」
レオニードも立ち上がり握手に応じた。
「ありがとう。吹っ切れたよ」
2人は笑顔を交わし、舞台を降りた。




