世界タイトルマッチ挑戦者決定戦 7
挑戦者決定戦2日目も初日同様の展開を見せた。少し違ったのはニキータがロバートの所に行こうとするのを審判員に止められたことである。ニキータは退屈そうにアーロンや他の組の対局を見たが、ひと目見て首を傾げるどころかしかめっ面をした。これにはそれまで行儀よく静寂を保っていた観衆も思わず吹き出した。ニキータは席に戻り、ふんぞり返ってキャンディーを舐め続けた。対するレオニードはニキータの即指しに惑わされず、1手1手丁寧に時間を使って指すことにしたようだったが、それも功を成さなかった。結局レオニードはニキータに4連敗を喫したのだ。アーロンは1人目の対局者を相手に1つの引き分けを挟み3勝を得た。タラスは2日目も粘りに粘り、午前午後共に100手(将棋で言えば200手)を越す長丁場をロバートに突きつけた。
老人タラスは粘りもむなしく、ロバートの4連勝で2日目の対局を終えた。
控え室に真田と共に戻ったロバートは昨日以上に疲れているようだった。コーヒーもちびりちびりとしか飲まない。
「4連勝、幸先は良いが、不満そうだな」
「その通りだよ。無駄に粘る、つまらないチェスだ。30手先の絶対敗勢の局面があいつにも見えていたろうに。普通はあそこで投了するもんだ、全く。若いレオニードの態度を見習うべきだ」
レオニードについては皮肉感たっぷりに言った。
レオニードは4局とも40手程度でニキータにチェックメイトまたは絶対敗勢の局面を突きつけられて投了していたのだ。
「疲れてるなら今日もさっさと帰って早く寝よう」
「ああ、でもちょっと横になりたい。10分。いや20分くらい休ませてくれ」
「そうか、じゃぁ外で待ってるぞ」
真田は廊下に出た。すると、またロシア選手達がアーロンの控え室にぞろぞろと入っていくのが見えた。
『今日もやるのか、タラスとかいう老人はつかれているだろうに』
そこに丁度アレクサンドラが現れた。
「あら、今日も早々に帰るのかしら? 」
「ええ、まだまだ大会は続きますから。ロシア選手は大変ですね。今日も皆さんで検討してから帰るんですかね」
「検討? 」
「ええ、昨日も今日もこの時間にアーロンの控え室に集まっているようですよ」
「そうなの。知らなかったわ」
「それでは、また明日」
真田は自販機でコーヒーを買い、会場の外に出て7月のロシアのやわらかな涼しい風を浴びた。遠くに見える自動車のつやのあるボディは街頭の光をその身に流している。大会が終わり、挑戦者が決まる頃には、この風は暖かくなっているのだろうか。
アレクサンドラは検討の様子をチラと見ようとアーロンの控え室に向かった。頂上決戦をしている男達の中に割り込むのは無粋だが、ねぎらいと応援の言葉のふたつやみっつ言っておけば、3分程度の滞在は許されるだろうと考えたのだ。しかし部屋の前に立つと大きな声が聞こえる。さすがに紛糾している中に入ることは躊躇われた。
「本当に約束通りにしてくれるんだろうな! 」
レオニードの声だ。不機嫌そうに怒鳴っている。
「安心しろ、レオニード。ちゃんとやることやってくれれば、引き分けをくれてやるよ」
アーロンの声だった。引き分けをくれてやるとは? アレクサンドラはドアに耳を当てた。
「タラスさんはよくやってくれたよ。1勝か、引き分けでももぎ取ってくれればもっと良かったが」
アーロンの言葉に他の男達が笑う。
「僕は明日から2日間、ロバートとの対局だ。これでまた4連敗でもしたら......僕の挑戦者決定戦はもう終わりなんだ。得意な戦型を捨てて長丁場の持久戦に持ち込むのは......僕にとっては不利なかたちなんだよ。本当に約束は果たしてくれるんだろうな」
レオニードが息を切らしながら言った。
「疑い深いな、君は」
タラスが口を開き、言葉を続けた。
「明日と明後日は私が引き分けをもらえるんだ。それを確認すればいいだろう」
「1局目で引き分けにするところを見せてくれ」
レオニードが言った。
「わかったわかった1局目だな」
「それで満足かい? レオニード」
アーロンが言った。
「ああ、ちゃんと見せてくれればね」
レオニードの返答にアーロンは軽く笑った。
「レオニード、何もこれは個人の戦績のためにやってることじゃない。チェス帝国ロシアの威信を保つためさ。ヴィクトール以外の世界の、いやロシアのトッププレーヤーが揃っていて、たった1人のアメリカ人に優勝でもされてみろ。たとえ、タイトルマッチでヴィクトールが防衛できたとしてもロシアの威信は大きく揺らぐことになる。だから奴には、ロバートには長丁場の対局を突きつけて体力を奪うんだ。そうすれば大会後半で奴はまともに戦えなくなる。それで負けようがそれは実力だから仕方がない。だがやってくれればその分として、引き分けを分け合ってポイントと体力を回復させる時間が保証されるんだ」
「わかったよ......きちんと従うよ」
部屋の中から足音が聞こえた。ドアに向かってくる。そう思ってアレクサンドラはドアから急いで身を離した。ドアが開き、出てきたのはレオニードだった。
「あら、レオニード、アーロンと何か話してたのかしら? 」
レオニードは一瞬アレクサンドラを見たが、すぐに目を逸らした。
「別に......なんでもないよ」
彼は足早にその場を去った。
『とでもないものを......聞いてしまったわ。真田があんなこと言うから聞いてしまったじゃない。真田......? もしかして彼もこれを知ってしまって、それで私にわざと聞かせるように誘導したのかしら! そうだとしたら......私はどうすればいいのよ』
アレクサンドラは真田を買い被り過ぎている。




