ニューヨークチェスクラブ 3 (シシリアンディフェンス・ドラゴンヴァリエーション)
真田はg6と指した。この真田の選んだ戦型は「シシリアン・ディフェンス・ドラゴンヴァリエーション」と呼ばれる。黒のキングサイドのポーンのうねりが龍のように見えることから名付けられたといわれる。
「ラモスさんのチェス暦はどれくらいですか? 」
「10歳のときに始めて……もう40歳になってしまったよ」
ラモスはBe3と指した。
「30年のベテランですか」
真田はBg7と指した。
「日本人、真田よ。君は今、チェスを指しているが、将棋はどうなんだい? 」
ラモスはf3と指す。
真田はこの対局で始めて長考した。それは次の一手を考えていたのではなく、ラモスの質問にどう答えるかを考えていた。真田はNc6と指し、
「ええ、将棋指してましたよ。プロの一歩前まで行きました。奨励会3段です」
真田は正直に答えた。奨励会という言葉を聴いた途端にラモスは表情を変えた。前かがみになり、盤を睨み付けた。ラモスの目はチェス盤の中を縦横無尽に踊り始めたのだ!
「ミスター真田、あなたはマスタークラスの将棋プレイヤーだったのですね。僕のことを記事に書いてもらうためにも、あまりお喋りできないですね」
そこからは早かった。手を読む力なら真田に分がある、真田は瞬時に10手先を10通り読んでしまう。しかし、30年のベテランは読まずとも、手を知っている。読むべき筋、読まなくても良い筋を心得ている。長年の研究は100のパターンを読む力に勝る。結局、真田は1ポーンの差に屈した。
「負けました」
「ありがとう。良い対局だったよ」
真田とラモスは握手をした。ラモスは息をついて、盤を眺める。その目はまだ先ほどの対局を盤の上をなぞっていた。
「本当に……将棋指しは恐ろしいよ。たった二ヶ月で、ここまで追い込まれるなんて」
「いえいえ、こちらの得意な形に付き合ってくれたおかげです。ロンドンシステムなど、他の戦型だったら、短手数でメイトされてたでしょう」
謙遜だった。真田は大抵の戦型なら互角に戦える実力をすでに持っていた。
「ミスター真田、公式戦に出るといい。君ならすぐにFIDEマスターに認定される」
「ええ、考えておきます」
二人は、先ほどの対局を振り返る感想戦を行いながらまた話をした。
「2階にはマスタークラスの方々がいらしてるんですね。今何人程いらしてますか? 」
「今日はGMが5人に他のマスターが10人くらいだったかな。2階には行かない方がいい、あそこはマスター以外が行ったところで無視される」
ラモスは話しを続けた。
「GMといえば、もうすぐこのニューヨークチェスクラブ出身GMが一人増えるんだ。すごい少年がいるんだよ」
「少年? 」
「そうさ、この間のトーナメントで優勝して、晴れてGM内定だよ。正式な認定はまだだけども。そして、その子はまだ13歳なんだ! 」
「もしかして、ロバート・フリッツ? 」
真田はアメリカの全米ジュニア選手権者の名前を思い出した。13歳にしてレーティングはすでに2600に乗り、IMに甘んじていたのは、実績が実力に追いついていないためだった。
「知ってるなら話しは早い。今日は来ていないのだけれども、いやあ、すごい少年だよ」
「おしいな、是非、ロバート君に会いたかった」
「彼は日曜にここに1日中いるよ。また、日曜に来るといい」
その回の真田のコラムは『ニューヨークチェスクラブ』と簡単な題がつけられ、連載開始から始めて対局の棋譜が載せられた。
また、夢を見た。今日は盤のそばに人が立っている。姿はぼやけているが、すぐにステファン・ラモスその人だとわかった。
「そんなやつに負けちゃったの? 」
以前聞こえた子供の声だ!
「まだまだ、なってないよ」
これまでなにも置かれていなかったチェス盤の上に駒が現れた。
白のポーンがe4と動いた。真田が返しにc5と念じるとポーンがその通り動いた。
真田は夢の中でラモスと再び対局した。一晩の内に何度も対局を重ね、20局程指したころ、ようやく彼をチェックメイトした!