世界タイトルマッチ挑戦者決定戦 5
カシャンと音がした。レオニードが手を指し、対局時計のボタンを押したのだ。ニキータはロバートとタラスの横から自分に席に戻り、盤面を一瞥してすぐに手を指し返し、対局時計のボタンを押した。またレオニードは頭を抱えてしまう。そしてニキータはロバートの方へ行ってしまった。ニキータ対レオニードはこのような調子である。
記者用観覧席で熱心に記録を取っている真田に、1人の女性が近付いてきた。その女性は真田に顔を近付けて耳元で囁いた。
「外でお話しません? 」
アレクサンドラの声だ。
「後で棋譜くれます? 」
「それくらいかまいませんわ」
真田は席を立ち、アレクサンドラと共に会場を出た。
会場から一歩出た先の廊下は閑散としていて、壁に掛けてある大きなテレビには決定戦のインターネット中継映像が映っている。中継にはヴィクトールともう1人ロシア人GMが出演して、対局の解説をしていた。
「何か御用でも? 」
真田が初めに口を開いた。
「ただ、久し振りにお喋りしたかっただけよ。いけないかしら? 」
真田は「仕事中です」という言葉を飲み込んで、
「構いませんよ。丁度疲れてきたところです」
と言った。
その時、テレビからヴィクトールの笑った声で、
「おやおや、青年よ頑張りたまえ」
と聞こえた。
「ははは、明らかな悪手ですね」
もう1人のGMが言った。
「また長考です」
レオニードがミスを冒したらしい。2人の解説者が意地悪なコメントをしていた。
「あれからはお変わりなく、女子タイトル防衛記録も伸ばしてるようで......」
「ありがとう。あなたも相変わらずロバートの世話役を続けてるようね」
「ええ、そんなとこですよ」
真田は笑って答える。
会話が続かず、2人は壁のテレビを見た。
「ニキータちゃん、キャンディー7本目に入ります」
解説のGMはおどけている。
「ニキータはキャンディーとロバートがお好みのようだね」
自分の席から離れロバートの横に立つニキータを見て、ヴィクトールがクックと笑う。
「ロバートは舐めても甘くはなさそうだがね」
世界チャンピオンが冗談を言った。
「ニキータは一体何してるんでしょうね。ロバートはああいうの嫌がりますよ」
真田が言った。
「悪気はないと思いますわ。本当にロバートのことが気に入ったのかしら? 」
アレクサンドラは口に手を当てて笑った。
「真田さん、あなたはこの決定戦で誰が挑戦者になると思うの? 」
真田は腕を組んで首を傾げて、
「ロバートかな、次いでニキータ。と、予想してます」
「あら、アーロンは眼中に無いのかしら? 」
「まさか、強敵でしょうね」
「強敵......敵なのね、やっぱり......」
「そりゃ、俺はロバートの味方ですから。それに、チェスでは星条旗を共に掲げる仲間です」
「ふふふ、心は日の丸のくせに。あなた本当はチェスが好きではないのでしょう? 」
アレクサンドラが笑顔で真田を見つめた。
「どうしてそう思ったんです? 」
「あなたのことをちょっと調べればわかるわ」
真田は片方の眉をつりあげ、シニカルな笑みを浮かべて、
「調べたんですか」
と言った。
アレクサンドラの表情が固まった。
テレビからは解説のGMの声が聞こえる。
「あぁ、カウンターですね。あの攻め筋はそもそもどうでしょう? やっぱりいつもと調子が違いますね」
レオニードの攻めをニキータが咎めたらしい。
「緊張しているのかね、ふふふ」
ヴィクトールも今日は意地悪だ。
「ええ、調べたわよ」
アレクサンドラは憮然と言った。
「日本に将棋っていうのがあるのは以前から知っていましたけど、あなたがプロの一歩手前までいっていた棋士だとは知りませんでしたわ」
真田は滔々(とうとう)と喋るアレクサンドラを、込み上げる笑みを抑えるような表情で見ていた。
「そ、そんな顔で見るのはやめてくださらない。別になんとも思ってないわ。それに......忘れてって伝えたでしょ」
真田はついに吹き出してしまった。
「忘れられませんよ、将棋も......あなたも」
レオニードが投了した。




