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ロシア再び 10

「あなたの手、冷たいわね」

 アレクサンドラが言った。

「ええ、温室育ちなもので」

 真田は手を胸の前ですり合わせ、ポケットに入れた。

「そうね、ロシアに比べれば、アメリカと日本は温室かもしれませんわね。アメリカからロシアに移住したらどうかしら? 色々と鍛えられるわよ」

 アレクサンドラの提案に、真田は笑って答えなかった。


 空港に到着した2人は、来た時と同じカフェでフライトまで待つことにした。

 真田と向かいあって座るアレクサンドラの目は泳いでいた。

「ねぇ、あなたさっきは答えなかったけれど、ロシアで暮らす気はないのかしら? 」

 意を決したように口を開いた。真田からは目を逸らしながら、また言葉を続けた。

「ほら、ここならチェスをやる環境は整ってるわ。GM(グランドマスター)の資格を持っていれば仕事にも困らないし......ロシア語だって、英語ができるならすぐ身につきますわ。それに......私が教えても......いいのよ」

 アレクサンドラは用意して来たチェスの手を指すように言った。

 真田はコーヒーをひと口飲んだ。

「魅力的なお誘いですね」

 アレクサンドラの顔が緩んだ。

「でも、それはできません。私はいずれ日本に帰郷して、そこで骨を埋めます」

 アレクサンドラはまた顔を伏せ、ミルクティーを飲んだ。お互いが小さな密室に閉じ込められているような重い空気に包まれていた。うぶな女王様の初恋が実れば、この密室は(たちま)ち開け放たれ照り輝いた新鮮な空気を味わえるだろう。しかし、真田はそうはならないことを知っている。

「じゃ......じゃぁ私がアメリカに、行くなんてどうかしら? 」

「どうしてアレクサンドラさんがアメリカになんて」

「もうわかってるでしょう。あ......あなたと一緒にいたいのよ」

 アレクサンドラはここで初めて直接に気持ちを伝えた。こうあっては、真田は返事を返さなくてはならない。

「それは誤解ですよ」

「誤解ですって? 」

「ええ、私にはあなたのような人に好かれる理由がありません」

「そんなことないわ。あなたには何か崇高な精神を感じるのよ。それに男性は何かしら内に暴力性を秘めているものなのに、あなたからはそれを感じないのよ。まるで理性の(かたまり)みたいな......初めて会った時、あの美術館で......ロバートと一緒にいるあなたを見て思ったの。14歳の子供を相手に、大人のあなたが尊敬をするような、相手の才能に敬意を払うような関係性を持っているのを見たの。そんな人初めて見たの。そしてあなたに見られた時......まるでこちらの精神を透かして見られたかのように感じたのよ」

 彼女の目は潤んだ。彼女の言葉は感情的に吐き出されたものではあったが、これまでの媚態をすべて帳消しにする、いやそれどころか彼女の気品と精神を遥かな高みへ押し上げた。かつてこれほど理性的、精神的理由で男性に対する恋心を持つ女性がいただろうか? まして彼女は絶世の美女である。

 真田は圧倒された。先ほどまで彼を幻滅させた「ただの女」はそこにはもういない。それどころか気高く気品に溢れた女王が現れた。

『精神を透かして見られたのは俺の方じゃないか! 』

 真田は震える指でコーヒーカップの取っ手を掴んだが、持ち上げることをやめ、指を離した。

「とても光栄です......ですが、あなたの気持ちには応えられません」

「そう......残念ですわ......」

 アレクサンドラの目は潤んでいたが、あっさりと引き下がった。

「ああ......それではフライトの時間なんで......行きますね」

 真田はテーブルにルーブル札を置いた。

「また、よろしくお願いします」

「ええ」

 真田は席を立ち、テーブルに女性を1人残し、その場を去った。


 1人残った女性に男が近付き、席についた。煙草臭い男だ。

「何を泣いているんだ。まさか失恋か? 」

「アーロン? 何であんたがここにいるのよ。......別に何でもないわ。」

 アレクサンドラは赤くなった目に構わず顔を上げた。

「あんたずっと跡をつけて監視してたわけ? 」

 アーロンが懐から煙草を取り出し、火をつけた。

「ロシアではまるでアイドル扱いの君が、新聞記者と2人でデートなんて心配して当たり前だろう。変な記事でも書かれたらどうする」

「それは大丈夫よ。だって私と彼はなんでもないもの」

「そうかい......」

 アレクサンドラはミルクティーを飲み干し、語気を強めてこう言った。

「ねぇ、アーロン。絶対にロバートに......いや、アメリカなんかに負けちゃダメよ」

 アーロンは煙草で灰皿をつついて、

「今更何を言っているんだ。そんなこと当たり前だろう」

 と言った。

「ならいいのよ。私だって、女王の座は絶対に渡さない」

 灰皿に煙草をぐりぐりと押し付けてアーロンはニヤついた。

「一体どうしたんだ? アレクサンドラ」

「なんでもないわよ。帰りましょう」




 アメリカに戻った真田は1通のメールを受け取った。


『ニキータとロバートの初手合を組んでくださって改めて感謝しますわ。あの子に取ってノンロシアントップの選手との対局は良い刺激になったはずよ』


 刺激と読んで、真田は流血したニキータの姿を思い出した。


『話は変わりますけど、私の初陣は敗戦で終わってしまったようね。世間知らずのうぶな女だと思って許してちょうだい。そして忘れてくだされば嬉しいわ。きっとあなたにも気まずい思いをさせたはずよね。

 私はもう負けませんわ。このロシアの覇権は誰にも譲るつもりはありません。

 私はこの圧倒的優勢な‘チェス’(あなたにとってはもしかしたら将棋かしら?)に負ける気はしなくてよ。


 みんなの女王、アレクサンドラより』


 アレクサンドラは子供のように自分が負けたと思っているようだが、もしこの初恋に勝者と敗者があるならば、敗れたのはむしろ真田の方なのだ。

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