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ロシア再び 8

「悪魔が喜ぶですって? 」

 真田は鼻で笑った。それに対してヴィクトールは優しく微笑んだ。

「何もここは中世の世界じゃないんだ。私自身、キリスト教という事にはなっているらしいが、決して敬虔(けいけん)な信者ではない。それにこれは......ただの例え話だ。君は悪魔を喜ばせたいと思うかね? 」

「私も盤上遊戯の魔力にとりつかれた人間です。出来るものならね」

「ふむ......そうかい」

 ヴィクトールの、クックと笑う様は誰よりも自分が偉いという事を自覚しているようだった。目の前にいる日本人を記者としてでもなく、チェスプレーヤーとしてでもなく、遊び相手をしてくれる臣下のように見ている節が感じられる。実際、今のヴィクトールは真田の話に答えるというよりは、自分の話したいことをただ話していた。囲碁においても相手との知的勝負よりも、指に触れる碁石の感触と、打つ時に碁石を通じて関節的に感じられる碁盤の木のやわらかい感触を楽しんでいた。


「これで終局だ。私の勝ちだね」

「ええ、5子じゃハンデが足りませんよ」

 2人は盤上の碁石を崩し、手際よく白と黒に分け、碁笥(ごけ)に戻していく。そこに1人の女が現れた。女は真田の横に椅子を引き腰を掛けた。アレクサンドラだった。

「変わったことしてるわね。あなた、いつからヴィクトール陛下(・・)の使用人になったのかしら? 」

 アレクサンドラは口紅をテーブルに転がしながら言った。

「アレクサンドラ、真田くんをからかっちゃいけない」

 ヴィクトールは(あご)の下で手を組んで言った。

陛下(・・)、あなたへの皮肉だったんですけど? 」

「これはやられた」

 ヴィクトールがまたクックと笑った。


 真田は隣にいるアレクサンドラから煙草(たばこ)の臭いがするのに気が付いた。

「アレクサンドラさん、煙草吸うんですね」

 アレクサンドラは眉間に(しわ)を寄せて、服の臭いを嗅いだ。

「いやぁね。女性にそう言うことを言うなんてデリカシーないわよ。それに私は煙草はやりません。さっきそこでアーロンに会ったのよ」

 アーロンとは、(かつ)てトレチャコフ美術館でロバートとエキシビジョンマッチを戦ったアーロン・ガチンスキーである。彼は当時は世界ランキング16位のプレーヤーであったが、今では実力をさらに伸ばし、世界ランキングはヴィクトールに次ぐ2位につけていた。この3年で彼は世界チャンピオンタイトルマッチ挑戦者になりヴィクトールに何度も挑んでいるが、ことごとく敗れ去っていた。

「彼ったらまた煙草の量が増えてるのよ。もう何メートルか離れてたって、臭いで彼の存在に気付いてしまいますわ」

「何かストレスでも? 」

 真田が言った。アレクサンドラはそれを聞いて微笑み、

「原因はあなたの目の前よ」

 真田はヴィクトールを見た。彼はまたクックと笑う。

「ヴィクトールがいつまで経っても玉座を譲らないからよ」

「然るべき相手が現れれば......自動的に玉座は動くよ......ただ、私はそれがアーロンだとは思わないのだよ」

 真田はヴィクトールの言葉に、昨日のロバートを交えての3人での会話を思い出した。

「なぜ、アーロンではないと? 」

「ふむ......真田くん、君も私の棋風がロシアンプレーなどと言われているのは承知だろう」

「ええ、確実な手を指し続け絶対にミスをしない、相手が崩れるのを待つというプレースタイルですね」

「その通りだ。そのロシアンプレーなるものを創始したのは私だ。だから今の世界ランキングトップ層のロシア人プレーヤーは......皆ロシアンプレーを採用している......。要は私の真似っこだよ。オリジナルの私が負ける訳がないのだよ。アーロンはその中で最も真似が上手かったというだけだ......。今や、ジュニアプレーヤーでさえロシアンプレーを良しとして私を真似ている」

 ヴィクトールは目を伏せ不満そうに語った。突然目を上げて大きな声で次の言葉を続けた。大きな声と言っても普段の彼と比べれば、であってそれは絶対的には小さなものだ。

「しかしだね。今や世界ランキングトップ層にロシアンプレーでない者が1人いるし、ロシアの未来有望なジュニアにもロシアンプレーに逆らう者が出てきたんだ」

「ロバート・フリッツ......とニキータ・コトフですか? 」

 真田は食い気味に言った。ヴィクトールは微笑んだ。

「その通りだよ、真田くん」

 そう言ってヴィクトールは立ち上がった。

「そろそろ私は失礼するよ。ニキータを学校に迎えに行く時間なんだ」

 真田も立ち上がり、ヴィクトールと握手をした。

「ええ、本日はありがとうございました」

「ふむ......私も楽しかったよ。また、頼むよ」

 ヴィクトールは広間から出て行った。


 ヴィクトールを見送り、広間に残った真田にアレクサンドラが声をかけた。

「あなた確か、夕方の便でアメリカに帰るのよね? 」

「ええ、そうですよ」

「ロシアにいる内に、私とランチはいかがかしら? 」


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