ロシア再び 6
今、ニキータは何と言ったのか。「どっちが僕の相手になるのかな」とは、まさに夢で見た、チェスの全てを見せてやろうと悪魔のように囁いたあの美少年の言葉に一致するではないか!
『仮にあの少年がニキータだとして、夢の中でこの少年と意思疎通していたなんて、一体誰が信じると言うのだ。そもそもこのニキータはどう見ても普通じゃない。こんな子供の言葉を真に受けてはいけない』
真田は10歳の子供の手前、大人らしく振舞うことにした。ニキータの頭を撫で、
「君の将来に期待してるよ」
と言って階段を下りた。ロバートと真田はモスクワチェススクールを後にした。
ロバートが滞在しているホテルの部屋で、ロバートと真田は久しく語り合った。これまでの国際試合のこと、真田の記事のこと、そしてロバートに付きまとう捜査官達のこと。ロバートは監視してくる捜査官にすぐ気が付いて自分から話かけるので、所によっては彼らは身を隠さなくなったことを話した。
「あいつらはいつもバレバレなんだ。僕が気が付かないときはきっと遠くから複数人で監視してるに違いない。映画やドラマと違って実際のやつらは格好悪いものさ」
テーブルにはチェスセットと赤ワインと軽食が置いてあった。真田はちびりちびりとワインを味わい、ロバートはサラダの盛られた皿からスライスされた人参を指でつまみ口に運んだ。
「サトシ、酒が好きならウォッカでも頼もうか? 敵地とは言えせっかくロシアにいるんだ」
「いや、いい。酒は好きだが、ゆっくり味わうのが良いんだ。強い酒は酔いすぎて興が冷める」
「そうか」
ロバートは一度手に取ったルームサービスメニューをテーブルに置いた。
「サトシの所には捜査官は来てないのか? 」
「来てても気が付いてないな。ロバートがスパイ容疑者なら俺のところに来てもおかしくない」
そう言って真田は、捜査官が報告書を読み上げるようなお堅い口調で、
「注意すべきは右の者、サナダサトシはスパイ容疑者ロバート・フリッツの親友であり、日本で大学教育を受け、知能が高く、記者として世界中を取材し、コネクションを持っていることである」
と言った。
「そして外国で、それも対立を深めるロシアで容疑者同士の密会中だぜ」
真田の言葉に、ロバートは「親友」と聞いてうれしそうな顔を見せた。最後まで聞いて笑った。
「それにサトシはロシア女と頻繁に連絡を取って、デートもしてる。僕より怪しい」
「ははは、確かにあの女王様は俺に気があるのかもしれない。だが応えられないな」
「そもそも、サトシの精神性に見合う女なんかいるものか」
ロバートは鼻で笑って言った。
「サトシ、覚えてるか。僕がアメリカを出る時に言ったこと」
「ああ、覚えてるさ。20歳までに世界チャンピオン......だろ」
「もう少しだ。もうすぐ挑戦者決定戦に出れるようになる......そしたらひと息でチャンピオンの座を奪ってやるんだ」
2人は数ヶ月ぶりの再会に夜を通して語り合った。
翌朝、ロバートはイギリスでの試合に参加するとのことでモスクワを発った。真田はまたモスクワチェススクールへと顔を出した。
城のようなスクール内に入ると、案内の老人が真田を呼び止めた。ロシア語で何を言っているのかわからなかったが、渡された紙にはヴィクトールからの伝言が英語で書いてあった。
『4階の広間の隅にいる。取材目的なら私と話をするのは有益だろう。
ヴィクトール・ボルザコフスキー』
広間に入ると、大勢のマスター達が額を寄せ合い練習対局や検討や研究している。誰も1人の日本人には目もくれない。そんな中、隅のテーブルでヴィクトールが1人で本を読んでいた。
「ヴィクトールさん、おはようございます。あなたから呼んで頂けるとは光栄です」
そう言って真田は席に着いた。ヴィクトールは真田に気が付いて、読んでいた本を置いた。それは囲碁の手筋問題集であった。
「やぁ、ちょっとワガママを......聞いてほしかったんだよ」




