ニューヨークチェスクラブ 2 (シシリアンディフェンス)
対局中の者も一人で研究中の者も、ラモスの方をチラと様子を伺っている。マスター資格を持つ者はやはり注目されるらしい。
「どうして日本人だと? 」
「アメリカに長くいる人間は、そんなシワのないキレイな格好はしないさ。まだアメリカは短いだろう」
「まだ数ヶ月という所です」
ラモスはやはりインテリ層の人間らしい。二人はテーブルに向かい合って座った。
「記者? それとも将棋関係者? おっとすまない。私が君を取材してるみたいだ。ちょっと日本の将棋ってやつに興味があってね」
ラモスは笑いながら言った。
「記者の方です。将棋の話は後ほどするとして、このチェスクラブについてお話を聞きたいのですが」
真田の言葉にたいして、ラモスは間髪入れずに、
「オーケー! わかった。対話にはこれが一番だ。対局しながら話そう」
ラモスは、白と黒のポーンをそれぞれ1つ手に取り、真田に見えないように机の下でポーンをそれぞれ右と左の拳に握った。その握った両方の拳を差し出し、
「どっち? 」
「右手で」
ラモスが右手を開くと、黒のポーンが現れた。
「おっと、ミスター真田、君は黒番だ」
これはチェスの先手後手の決め方である。将棋の振り駒、囲碁のニギリに相当するものだ。
「チェス暦はどれくらいだい? 」
ラモスの初手はe4だ。公園での乾いた音と違い、温かみのあるかたい音が響く。
「二ヶ月です。」
真田はc5と指した。古き良き手はe5であるが、キング前のポーンを突き合うゲームは古来から研究され、現代では実力者同士だと黒勝ちの望みは薄いとされている。この黒c5から始まるゲームは「シシリアン・ディフェンス」と呼ばれる。真田はおこがましくも、インターナショナルマスター相手に勝ちにいこうとしているのだ。
「二ヶ月か、チェスは楽しいかい? 」
ラモスはNf3と中央を支配するため、キングサイドのナイトを展開した。
「ええ、とても。ラモスさん本業の方は何をしてらっしゃるんですか? 」
真田はd6と指した。これは白のd4に備えc5ポーンを支える手である。
「僕は弁護士さ。将棋のプロ棋士って制度はいいね。将棋だけで食べていけるんだから。チェスで食べていこうと思ったら大変だ。グランドマスターになるだけじゃ足りない、世界のトップ何十人かに入らなければならないんだからね」
ラモスはd4とポーンを突いた。
「将棋はプロになるまでが大変です。厳しい年齢制限がありますから。今日、ここにマスターはあなただけですか? 」
真田は元奨励会員の当事者であるにも関わらず、無感情でこれに答えた。真田はcxd4と白のd4ポーンを黒のc5ポーンで取った。
「他のマスターはみんな2階にいるさ」
ラモスはNxd4とナイトでポーンを取り返した。
「なるほど、記事でこのクラブの雰囲気を書きたいのですが、あなたのことも書いてよろしいですか? 」
真田はNf6とキング側のナイトを展開すると同時に、無防備な白のe4ポーンを攻撃した。
「ええ、どうぞ。でも僕が負けたら、それは内緒で。」
ラモスは笑いながら言った。指し手はNc3、クイーン側のナイトを展開し、e4のポーンに紐をつけた。シシリアン・ディフェンスの基本形と呼ばれる局面になった。