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ロシア再び 5

 ロバートは席を立ち広間を出た。真田もそれに続き、廊下の水場で手を洗うロバートに声をかけた。

「あの子は、ニキータはどうだ? 初手a6は地力を確かめるために指したんだろう? 」

 ロバートはヴィクトールのハンカチで手を(ぬぐ)った。

「気味の悪いガキだ。カートゥーン(漫画)の世界から出てきた悪魔の子供みたいだ。実力だったらあんたの予想通りだよ。並みのGM(グランドマスター)じゃ歯が立たないだろう。途中棄権以外の黒星がないのも納得だ」

「あんなかわいい悪魔なら呪われてみたいね」

 真田は笑って言った。

「まったく、ジャパニーズはいかれてるな」

 ロバートも笑った。


 そこにヴィクトールが現れた。

「ロバート、ニキータのことだが......大目に見てやってくれ。あの子は、普通じゃないんだ」

 ロバートはヴィクトールにハンカチを返した。

「普通じゃないのは見りゃわかるさ。それよりも、何度も謝るなんて、まるで僕が心の狭い人間みたいじゃないか」

 ロバートの言葉に真田は笑いそうになったが、堪えた。

「ふむ......君が心の広い人で助かったよ......。ニキータはどうだい? 素晴らしいだろう。近い内に彼が、私の......世界チャンピオンの座を奪うよ」

 ヴィクトールの「私の」という言葉に、ロバートは明らかに苛立ちの感情を顔に出し、反抗的に鼻で笑った。それにヴィクトールも気付いた。ロバートは世界ランキング11位だったが、ノンロシアンではトップだった。ヴィクトールは世界チャンピオンでランキングも1位であり、今年の世界代表対ロシア代表で2人は4局マッチを争い、ヴィクトールの2勝1敗1分だったのだ。

「ふふ......何も私は、嫌味を言いに来た訳じゃない。君には......頼んでおきたいことがあるんだ......ロバート」

 予想外の言葉にロバートと真田は2人して目を丸くした。ヴィクトールは言葉を続けた。

「今はわからなくてもいい......。ニキータはきっと、孤独に......寂しい思いをすることになるだろう......。その時は、きっと、君じゃなきゃ駄目な気がするんだ」

「何を言ってるんだ? 」

「いや、君は......思うままにチェスをしてくれればいい。それで......いい」

「意味がわからないな。あんたも普通じゃないよ。サトシ、もういいだろう。行こう」

 ロバートは真田を顎で促した。モスクワチェススクールの建物から出ようというのだ。

「まぁ待て、ロバート」

 急いで出ようとするロバートを止め、真田はポケットから名刺を出し、ヴィクトールに渡した。

「私はアメリカで記者をしてるんです。また明日来てもよろしいでしょうか? あ、一応私もGMなんで、あの部屋にプレーヤーとして入る資格はありますよ」

 ヴィクトールは名刺を見て、

「ほう......日本人がチェスを......まぁ構わないよ。ここは入館料さえ払えば、誰でも出入り自由だからね」

「それはどうも」


 ヴィクトールをその場に残し、2人は階段へ向かった。階段を(くだ)った時、いつの間にか足元にニキータがいた。一瞬、辺りの景色が白んだ気がした。ニキータはハンカチを噛み、階段に体育座りをしている。上目遣いで2人を見る青い瞳は少し潤んでいるようにも見えた。真田は屈んで、顔を近付けた。ニキータからは血の匂いが漂っていた。

「こんな所でどうしたんだい? 血は止まったかい? 」

 こう英語で言って、ここがロシアであることを思い出した。

「あぁ、そうだロシア語......ロバート! 」

 真田はロシア語が話せない。3年の海外修行でロシア語を身につけているロバートに頼もうと思った。ロバートは真田の声に振り返ったが、

「これをロバートにあげるの」

 ニキータが英語で言った。ニキータは真田にスコア(棋譜を記録した用紙)を差し出した。スコアに記録されているのは勿論、ロバートとニキータの対局である。しかし、そのスコア用紙には血が(したた)っていた。

 引き返し階段を登って来たロバートが、ニキータの手から用紙の端を指で摘まんで取った。スコアを一瞥(いちべつ)し、苦笑いをした。

「これは君が持ってるんだ」

 ロバートはニキータにスコア用紙を返し、また階段を降りて行った。ニキータはハンカチを口から外し、笑顔を見せた。唇には乾いた血がべったりとついていた。スコア用紙にキスをするように口元を用紙で隠し、

「アイラービュー、ロバート」

 と言った後、青い瞳を真田に向けた。

「エンド......サトシ」

 ニキータの目が笑った。

「どっちが僕の相手になるのかな? 楽しみだね」

 ニキータの声、喋り方はとてもかわいらしく、魅力的な毒素が含まれていた。

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