ロシア再び 4
チェスを始めとして将棋、囲碁、シャンチーなどには定跡というものがある。何百年にもなる研究の中で明らかにされた道。初手から存在する無数の選択肢という闇の中を、樹形図の形を持ってプレーヤーを導く光の道となる。
ニキータはチェス盤に向かい、目を閉じればその光の道が見えた。いつもそれに沿って歩いていけば良かった。しかし、今、目の前のアメリカ人はたった1手で道をすべて断ち切った。
『道に頼らず、闇の中をもがき合うなんて! 』
ニキータは昂揚した。下腹部から発せられた冷たい震えが背筋を貫いた。鼻で大きく息を吸い、目を見開きロバートを見る。日を背にした彼は顔の陰影が濃く縁取られていた。
『やっぱり妖精さんだ。彼は僕にこの宇宙を見せてくれる』
さらに手が進んで行った。ギャラリーのマスター達はロバートの初手a6に憤慨していたが、定跡に頼らない地力を確かめるという観点からすれば、これは有用な手段だった。もちろんそんな手を指したものだから局面はロバート不利である。実力のあるマスター同士の対局、それも力戦はたった1手の違いですべてが崩壊する。ロバートは間違えなかった。
ヴィクトールはニキータがいつもと様子が違うことに気がついた。いつもは、笑顔になることはあっても、今のように体を震わせたり揺すったりすることはなかった。それに表情もいつもより興奮しているようだった。
ニキータはいつになく酩酊していたのだ。地力で宇宙を彷徨い、小さな光をひとつひとつ摘んでいく。今まで道に乗っていたので、それは初めての体験だった。
『今はチェスが僕に酩酊を与えてくれる。時にそれは明晰で、時にそれは幻想だ。この酩酊に浸り喜ぶことで、生きていると実感できる......。これこそチェスだ。理性の......様々な公理と自然法則のぶつかり合い。ぎりぎりと引き絞られた弓が当てもなく狙いを定めるような矛盾した緊張感! 僕とロバートは今自然を、宇宙を模写しているんだ。この宇宙はたった1つの手違いでたちまち収束し、崩壊してしまう。』
このスリルと喜びにニキータは恍惚とした。
『これからも僕はチェスを何局も指すだろう。その度にこの1局を思い出し、快楽に酔うんだ。目の前の相手を見ずに、彼を思い出して楽しみに溺れるなんて......僕はなんて不貞なんだろうか』
局面は終局に近づいた。ニキータは棒付きキャンディーを噛み砕いた。その瞬間、割れて鋭利になったキャンディーが唇に深く食い込み、たちまち紅の小さな唇は裂け、血が滲んだ。血は張力によって膨らみ、湛えられた。やがて湛えきれずに張力は破れ、流れた。真っ白な雪原に撒かれた血のように、ニキータの肌に血が流れた。
ニキータはキャンディーの棒を口から落とし、左手の親指で流れる血を支えた。そして唇の上を血にまみれた指の腹を口紅を塗るように滑らせた。ニキータの紅い唇は赤黒い薔薇の色に染まった。
対局はお互いのキング以外の駒が尽き、引き分けとなった。
「ドローだ」
そう言ってロバートは右手を差し出した。ニキータはこの右手を両手で持って迎えた。ニキータが手を掴んだ時、ロバートは手の甲に冷たさとぬるっとした感触を得た。盤上で結ばれた手から血が滴り落ちた。急ぎヴィクトールがニキータの手を解き、血を見た。
「ああ、ロバートすまない。この子に代わって謝ろう」
ヴィクトールは上着のポケットからハンカチを取り出しロバートに渡した。ロバートはハンカチで手を拭い、
「子供のやることだ。安心してくれ、僕は怒っちゃいない」
と言った。
ニキータはアレクサンドラにハンカチで口を拭かれていた。その目はロバートに固定されている。アレクサンドラからハンカチを奪い、自分で出血部を抑えながらロバートに言った。
「ずっと一緒にいた......やっと会えたね。僕はとても嬉しい」
また血がこぼれた。




