モスクワチェススクール 1
セルゲイは居間のテーブルの上にチェス盤を置いた。
「パパはな、昔高校で1番強かったんだ。『ツーナイツのセルゲイ』なんて呼ばれてたんだ」
父の話を聴いているのかいないのか、ニキータはただ駒を並べる様子をニコニコしながら見ている。駒をひとつ盤に置く。その度に響くやわらかな、あたたかい音にニキータの心は躍った。
「ニキータが白番でいいぞ」
セルゲイの言葉にニキータはすぐに初手を指した。古き良きe4だ。それに対し黒のセルゲイはe5と指した。基本に忠実なオープニングを父は子供に見せるつもりだった。
ニキータの指し手は速かった。まるでコンピューターの如く、相手の指し手に食い気味に指すのだ。端から見れば、ただ駒を動かすのが楽しくてしょうがない子供に見える。しかし、その手は正確だった。最短手数で相手のキングを捕らえようとしている。セルゲイはニキータを見た。
『やっぱりこの子は天才だ! ニキータの脳は数理を欲している』
ニキータは退屈そうに口を尖らせ、チョコの包みをあけた。
ロシアでは小学校から義務教育の中にチェスが取り入れられている。特殊学級に入れられているニキータはチェスの授業を受けていない。セルゲイはニキータをモスクワチェススクールへ連れて行った。このスクールでは子供から老人まで、ルールも知らない初心者からグランドマスターまでもが通う名門スクールである。研究会ともなれば、世界チャンピオンのヴィクトール・ボルザコフスキーをはじめ世界のトッププレイヤーが集まる場所でもあった。スクールの外観は巨大な城そのものである。石造りの建物で、電気は通っているものの、明かりの半分はまだガス灯が使われていた。
2人は案内の老人に従い子供用の広間に通された。扉を開けると、下は5歳から上は16歳ほどの少年達が駒を盤に打ち合っていた。少年達の背中には保護者らしき男性達や、講師をしているマスター達がいた。人ごみの奥には暖炉があり、金網に遮られた火は薔薇のように燃え、人々を照らしていた。
「お子さん、棋力は? 」
案内の老人が言った。
「いや、まだわからないんですけど......それなりにはできるかと」
「親はみんなそう言うんだよ」
「はは......そうですか」
老人は1人の10歳程の少年を指名して、ニキータと向かい合わせに座らせた。
「よろしく」
少年はニキータに握手の手を差し出した。ニキータは無言で握手を返した。対局が始まった時、少年と老人が意地悪に笑った。実はこの少年はレーティング1800を超える、ジュニアの実力者だった。自分の子供は強い、才能があると言う親の勘違いを砕いてやろうというちょっとした洗礼である。しかし、その洗礼は意味をなさなかった。少年は20手でニキータにチェックメイトされた。
「こいつ! 初心者じゃない! 」
少年は大きな声で老人に言った。広間の人の目はニキータ達に注がれた。
「ちょっと、セルゲイさん。過少申告は困りますよ」
「いや、すみません。でも強いって言いましたよ」
その時、広間の扉が開いた。普通なら誰も気にしないことだが、入ってきた人物が特別だった。ニキータ達に注がれていた目はすぐにその人物に焦点を合わせた。その人物とは、世界チャンピオンのヴィクトールだった。金の髪はうねっているが上品に整えられている。黒縁のメガネを掛け、鼻の下には金のヒゲがたくわえられていた。高級なスーツの艶を輝かせながら、彼は指揮者のようの人々の興奮を抑えさせるような手振りをした。
「やや......これは。私のことは気にしないで、気にしなくて......いい」
消え入るような低い声でヴィクトールは言った。ヴィクトールに続いて、アレクサンドラ・カレーニナが入って来た。人々の目はすぐに、若く美しい女子世界チャンピオンに移った。ヴィクトールも自分への目が逸れたことに安心してアレクサンドラを見た。案内の老人が2人に向かい、
「これはこれは、今日はこちらになにか? 」
と、うやうやしく言った。
「今日は......この間の代表戦の研究会だよ......その前に、子供達を見に来たんだ」
代表戦とはロシア代表対世界代表戦のことである。老人は2人の前から下がった。ヴィクトールはセルゲイとニキータを見た。
「新入りさんですね。初めまして」
「あ、これは、どうも」
ヴィクトールとセルゲイは握手をした。
ロシアでは義務教育にチェスが取り入れられていると書きましたが、実際には地方や学校によって異なります。ですがチェス学校というものは存在します。
チェスを義務教育に取り入れている国では、アルメニアが有名です。アルメニアはチェスの授業を取り入れてからというもの、子供達の学力が大幅に上がりました。
日本も将棋、囲碁を義務教育に取り入れてくれればいいですね。




