ニキータ・コトフ 2
セルゲイは帰ってくるなり、居間で数学の本をめくるニキータに話しかけた。
「ニキーターこれ好きなのか? 」
ニキータは足をバタつかせて笑顔で頷く。
「何が面白いのかしらね? 」
エレーナが皮肉っぽく言った。
「もしかしたら数学を理解してるんじゃないか? 」
「そんなわけないでしょ。まだ全然喋らないし、字なんか読めないわよ。それより、もう一度医者に診てもらった方がいいわね。自閉症とか発達障害かもしれないわ」
「ああ、そうだな」
ニキータは、父と母が毎日一生懸命に話しかけてくるので人の言葉は理解できる。その言葉を聞いてる時に、ニキータの目には不思議なものが映り込んだ。時々、何かの図形が見えた。その図形は触ることが出来ない。父と母にはこの図形は見えていないようだ。
ある日、ニキータはこの不思議な図形が現れる条件を発見した。父と母の言葉の中に数字や記号が出た時だ。ニキータは身の回りの数字・記号を探し求めた。
『あの不思議な光景をもっと見たい! 』
やがて見つけた楽園。そこにある本を開けば、たちまち目の前に広がる幻想的な世界。様々な図形、線形が空中に散り、ニキータを包んだ。腹を起点として発せられる震えが全身に、指先まで伝わった。震える手を本のページに押し当てる。臭いをかいだ。父の手の臭いだ。この昂ぶった気持ちをどうしたらいいかわからない。ニキータは開かれたページにキスをした。それでも興奮は収まらず、貪るようにページをめくった。幻想が与える快楽に、ニキータは酔った。
「ニキータ! 何してるの! 」
母エレーナの声でこの酩酊は中断させられた。
ニキータは病院に連れて行かれた。両親はいつまで経っても言葉を話さない息子を心配したのだ。しかし、ニキータは話せない訳ではなかった。言葉は既に理解しているが、何を話せば良いのかわからなかったのだ。普段のコミュニケーションは首を縦か横に振れば済んだ。「話すこと」が当たり前ではないニキータには話す必要性が感じられなかった。
診察室でニキータの前に中年の男性医師が座った。ニキータの後ろには両親が控えている。
「ニキータくん、こんにちは」
医者が話しかけた。ニキータは医者の顔をじっと見ている。普通の子供なら反射的に何か返事を返すだろうが、ニキータにはそれがない。もちろん、聴力には問題ない。挨拶は返すものという常識がまだ身についていなかった。
医者は飴とチョコを取り出した。
「ニキータくん、どっちが好き? 」
ニキータはチョコを指差した。医者はチョコの包みを剥がしニキータに与えた。
「どんな味がする? 」
ニキータは口に入れたチョコを飲み込んでから答えた。
「イチゴの味」
両親は驚き、医者と顔を見合わせた。
「他にどんな味が好き? 」
医者は質問を重ねた。
「甘いの全部」
また、両親は顔を見合わせた。
「お話はできるんだね? 」
医者の言葉にニキータは頷いた。
「言葉の理解に関しては安心してください。ただ、やっぱり普通の子とは少し違うようなので......知能検査をさせていただきます」
「わかりました。もしかして知能が低いのでしょうか? 」
「いえ、逆の可能性が高いです」
ニキータは別室に連れて行かれた。そこでパズルのはめ込み、組み木、言葉の暗唱などをさせられた。検査の結果は医者の予想通りとなった。幼児の知能検査ではIQの数値よりも、現段階で何歳並の知能を持っているかの方が重要な指標となる。0歳から6歳までの幼児用のテストでニキータは測定不能と出た。思考力はすでに7歳並以上はあるとわかった。しかし、それほどの高知能を持っていて家庭で通常の言語コミュニケーションがとれていないことから、医者は高機能自閉症の疑いありと診断した。
検査の途中、ニキータは医者に向かって。
「これが何になるの? 」
「僕がこれをして、君はどうするの? 」
「その言葉を暗唱することに、何の意味があるの? 」
と目の前の課題を越えて、目的に興味を持ったのだ。医者は途中からニキータが2歳であることを忘れ、思い出し、驚いた。




