ニキータ・コトフ 1
セルゲイ・コトフはモスクワ市内の高校で数学教師をしている。金髪の白人で、どこか影のある目つきをしているが、根は明るく、生徒からも慕われていた。彼は30になった頃ロシア東部出身のエレーナという黒髪の女性と結婚した。セルゲイは数学で身を立てようと研究者を目指したが、才能の限界を悟り、やむなく教師になった。彼は結婚した今でも夜は部屋に篭り学術研究書や論文を読み、研究に没頭することがあった。彼の妻エレーナは、恋人時代はセルゲイのそんな所を魅力的に感じていたが、結婚してからは疎ましく思うようになった。
「あなた! あなた! 」
階段下から2階の部屋に篭る夫を呼ぶ妻の声が聞こえた。やがて、階段を上る足音が聞こえた。エレーナは夫の部屋のドアを開けた。
「あなた! いつもそう数学のことばかり、いい加減にして」
セルゲイは椅子に座ったまま振り返り、
「どうした? 大事な話か? 」
「そういうわけじゃないの。私達は結婚したのよ」
「ああ、そうだとも。僕達は結婚した。君はこんな僕を素敵だと言ってくれた」
「ええ、そうよ。でも結婚してもそのままだとは思わなかった」
「わからないな。話が見えないよ」
「もういいわ」
エレーナはセルゲイの部屋を出て、居間に大きな足音を立てて下りて行った。
それからセルゲイは妻に構うようになったが、それは子供の扱いを知らぬ者が親戚の幼子を相手にするような不器用なものだった。また妻へのプレゼントとしてロシアンブルーの猫を飼った。
「僕達はコトフだ。猫は飼っておかないとな」
コトフとはロシア語で猫という意味を持つ姓である。これが功を奏したのか、2人の間に子供が生まれた。エレーナと同じ黒髪の男の子だった。2人は息子に「ニキータ」と名付けた。
ニキータが生まれてから1年が経った。顔ははっきりとエレーナに似てきた。赤ちゃんは1年経った頃に一言二言しゃべり始めるものだが、ニキータは「あ~」や「う~」としか言わなかった。心配になった2人は医者に診せたが心配ないとのことだった。ただ「直接、たくさん話しかけてください」とだけ言われ、夫婦はそれを守った。さらに半年が経った頃、ニキータは笑う、泣く以外の呻きをあげなくなった。夫婦はニキータが意味ある言葉を発するのを待っていたが、2歳になってもしゃべることはなかった。話さない代わり、ニキータは表情が豊かで、意思疎通はとてもスムーズだった。
ある日、エレーナがソファでつい昼寝をした時、ニキータの姿が見えなくなった。エレーナが1階中を探しても居らず、いつも行動を共にしている猫とも一緒にいなかった。2階の寝室にも居らず、夫の部屋を開けた時、ニキータはそこにいた。
「ニキータ! 何してるの! 」
いつも綺麗に整理されている夫の部屋が泥棒に入られたかのように、ぐちゃぐちゃになっていて、ニキータは本に埋もれ、セルゲイの数学の本を見ていた。
「ニキータが散らかしたの? だめじゃないの」
エレーナは、呼びかけてもなんの反応も返さないニキータから本を奪い取った。
「いやあああああ」
ニキータが声を上げた。エレーナは驚いた。毎日一緒にいる息子の声を久しぶりに聞いたのだ。
「これ好きなの? 」
エレーナの言葉にニキータは頷いた。こちらの言葉を理解している! 自分から喋らないだけで、言葉は理解しているのだ。エレーナは、ニキータがページを次々とめくって行くの見た。
『何が面白いのかしら? グラフの形? この変な記号が気に入ったのかしら? それよりも、この本、片付けようにも整理の仕方がわからないわ』
エレーナは夫に『ニキータが喋った』とメールをした。やがて妻の携帯電話が鳴った。授業を終えた夫からの着信である。
「ニキータが喋ったって? なんて言ったんだ」
「『いやあああ』って言ったのよ」
「『いやあああ』って? 君、ニキータに何をしたんだ」
「何もしてないわよ。ニキータがあなたの部屋を散らかして......あなたの本を見てるわ。それで本を取り上げたら、そう言ったのよ」
「そうか、今は? 」
「まだ本を見てるわ。このまま見せておいても構わないでしょ」
「ああ、構わないよ。それと、僕の部屋散らかったって? 」
「ええ、泥棒に入られたみたいにめちゃくちゃよ。どうやってここまでやったのかしら? あ、あなたの本、どこにしまえばいいかわからないんだけど」
「とりあえず、本が傷まないように置いといてくれ、僕が片付けるから。それじゃ、次の授業があるから」
「ええ、わかったわ」




